『白痴』 坂口安吾 青空文庫337

空襲で逃げ惑う自分を描いたものである。ここまで克明に自己観察が出来るものなのだ、という驚きがある。

 

しばらく前(2年ぐらい前)に『明治大正見聞史』(中公文庫 生方敏郎)を読んだことがあるのだが、その中の、「関東大震災」を思い出した。こちらは、ジャーナリストが書いたものなので、周りの状況を主に書いている。

 

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草が伸びて、穂を出してしまうので、暑い中で、鎌を使った。植木に近づくたびにセミが飛び立つ。飛び立たないで、バタバタ騒いでいるのが居たのでそちらを見たら、カマキリにしっかり押さえつけられて、胴の五分の一ほども食われてしまっているアブラゼミであった。もう逃がしてあげるには遅すぎた。

不図。『荘子』の一節を思い出した。

確か、珍しい鳥を見かけたので禁止されている公園に入り込んだ。その鳥は、何かに気を取られていて、こちらに気が付かない。その視線の先には、カマキリが居た。そのカマキリの視線の先には、セミが居た。そのことに気づいた時に、愕然として、急いで公園の外に走り出したのだが、既に遅く、監視に見つかってしまい罪に問われた。というようなものであった。

 

暑い。暑い。特に夜が暑いですね。

 

 

 

 

 

堕落論・続堕落論  坂口安吾

青空文庫』 坂口安吾の作品は500近く読めるようになっているが、その256と257にあたる。

 

昭和21年に書かれた短文である。

一読の価値あり。

 

青空文庫は、著作権の切れた作品を中心に、誰でも読めるように 無料。ボランティア活動によって入力されたもので、最近は相当な作品が読めるようになっている。実にありがたい。

ボクのような、紙にこだわりのある人間は、どうしても、本屋では手に入れにくい作品しか、読まないが・・・

 

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8月6日

第二次大戦の終結をもたらした爆弾の投下された日。苧坂光竜老師が、辛くも防空壕へ飛び込んで難を逃れた日。

 

昨日、日本の排他的経済水域にミサイルが撃ち込まれた。

 

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『大衆の反逆』第二部 世界を支配しているのは誰か 

此処に書かれてあるのは、ヨーロッパは一つにならなければならない。そういう未来を見据えて歩き出さなければならない。ということである。1930年に発表されている。

最後は、イギリス人のためのエピローグ これは1938年に書かれている。

ドイツが着々と戦争準備を進めている時に、平和や軍縮を唱えているイギリスに向かって書かれている。それは間違っている、と。

今。見方によっては、宣戦布告のない戦争状態が始まったような時に、一読の価値ありと思う。

 

安倍氏の殺害が日本混乱の引き金になるのだろうか。

事態は急展開をするのだろうか。

見て見ぬふりでやり過ごせる程度の事態なのだろうか。

 

静かに手を合わせるだけではすまないような。心が騒ぐ8月6日である。

 

 

 

 

『大衆の反逆』(岩波文庫)

久しぶりに手に取っている。・・・これは2年前に購入し、直ぐに読み始めた。でも、三分の二ほど進んだところで、止めた本である。

盗人猛々しい。いい加減にせんか!というような気持であった。

 

だが、それほど腹が立ったのに破棄せず手元に置いておいたのは、これだけ有名な、読みやすい本を、途中で投げ出してしまうのは面白くない、いつか、冷静に読めるようになったら、つづきを読もう、という気持ちがあったからである。

 

今回、第二部 世界を支配しているのは誰か のところから読み始める。

 

 

そもそも2年前に読み始めたのは、「ポピュリズム」というのが、分かりにくいので、読んでみようかと思ったのであった。

トクヴィルの、歴史は平等へと流れている、という見方に納得していた(彼は、いやいやながら、しぶしぶ認めていたようなところがあるのだが)ので、今の、アメリカに黒人差別があるのはけしからん、とか性差別があるのはけしからん、とか言われている時代に、ポピュリズムというのは、一体何なのか、という思いがあった。

大衆が政治参加するのが何が問題なのか、と。

そういう思いの延長上の読書である。

 

以前、『言語と社会』(岩波新書)を読んでいて、イギリスでは言葉を聞いただけでその人の所属する階級が分かる、というような話に驚いたことがあるのだが、(この本は今は絶版かな?)

 

そういう「階級」というのに、近頃は少し敏感になってきているのかも知れない。

 

夏目漱石など、若い時は面白く読んでいたのだが、近頃は、あれは特権階級の、鼻もちならないところが目に付くよなあ、とも思うのである。

当時はそういう人が読者だったので、ボクなどは想定外なのだろうなあ、と。

 

つい最近のニュース、恋愛体験のない20代が40%とかでも、ボクは驚かなかった。何も驚くことはない。生きてゆくのに精いっぱいなら、その余裕はない、と思うのである。ややこしいことで時間を使いたくはないので、近づかない。それが40%は普通だろう、と思う。

 

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例によって、何が言いたかったのか、分からなくなってきた。何に腹が立ったのかを書いているうちに脱線してしまった。反省。

 

つづきを書く気が失せてしまった。今日はここまで。

 

 

 

 

 

『山の人生』柳田国男著

論じるような本ばかり読んでいたので、そうでない本が読みたくなった。

 

柳田さんの本は、ずっと図書館から借りて読んできたので、手元にはこの一冊しかない。

柳田さんの著作は、今では、青空文庫にも沢山収録されているが・・・紙の本に愛着があり、そちらはめったに訪れない。

 

ボクの生まれたのは茨城県の一番北の山の中だ。ちょっと歩けば福島県に入ってしまう。

子どもの時、まだ小学校に上がる前、庭で遊んでいたら、知らない男のひとが、下の方から上がってきて、家の外ですこし休憩して山の方へ登っていくのを見送ったことがある。

それが、今でも、薄れてきてはいるが、記憶に残っているのは、おばあちゃんの様子が普通ではなかったからである。おばちゃんが近くにいたということは、おばありゃんが私の守りをしていたということだろうと思う。

そのおばあちゃんがちょっとでも知っている人なら、にこやかに挨拶をかわすはずなのだ。

それで、不審に思い、誰なのか聞いたのだろう。おばあちゃんは何とか言っていたが、その呼び名はもう忘れてしまった。が、山の中で生活している人だから、付いて行ってはいけないよ。戻れなくなってしまうから、というようなことを言われた。

一人だったらついていったかもしれない、と思ったのだろう。実際ボクはそうしたかもしれない。勿論とちゅう知らないところまで行ったら心細くなり帰りたくなっただろうけれども。

 

数年後には私は都会に出てしまったので、その後の事は知らないが、そのころはまだ山の中で生活している人が居たのである。ボクの知っている田舎が急激に変わりだすのはその十数年後であろうか

『山の人生』を手に取ると、そんな昔のことを思い出す。

 

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今日は暑くなりそうである。

 

 

 

山上容疑者

最初の1週間ぐらい、目に付く記事は読んだ。その後は、めんどくさくなり、読んでいない。眼を通すのはニュースの見出し程度である。

 

ボクは、若い頃(10代、高校生の頃)、ドストエフスキーに捕まってしまい、抜け出せなくなったことがある。学校を休み、落第寸前まで行ってしまった。

 

あれから、もう何十年も経過しているのだが、今回の事件が妙に気になっている。

 

罪と罰』のラスコーリニコフとは、違うところも多いのだが・・・自意識過剰になってしまい、自己の世界に閉じ込められてしまっていた、のではないか、と思わせられるところなど、相当似ているのではないかと思わせられる。

 

これから4か月ほど、精神鑑定を受けるということだが、納得するところである。

 

 

本当に久しぶりに、ドストエフスキーを思い出したが、あの世界では、すべての登場人物が、ハイテンションで走り回っていたなあ、という印象が残っている。

ボク自身もまた、そうであった。何かに憑かれたように、視野が極端に狭められた中で、藻掻いていた・・・。頭の中は、全力疾走していた・・・車輪の中を走り回る白鼠かハムスターのように。堂々巡りをしているのだが、どうにもならない。

 

分かっていても止められない。身体を止めても、頭の中は、全力で沸騰する。

 

彼も、環境が変われば、憑き物が落ちるように、自分の囚われていた状態が見えるようになるかもしれない。そうすれば、初めて冷静に、自分のしたことと向き合えるようになるだろう。・・・辛いだろうが。