『ローマ帝国衰亡史』 5

第十五章 クリスト教の進展、初代クリスト教の思想・風俗・員数及び状態

 

この章はなかなか勉強になりました。その中でも、ボクにとっては、特に

「異教の神々を悪魔と見る」と「偶像教に対するクリスト教徒の深甚の憎悪」

という節などが印象深い。

 

初代のクリスト教徒には、偶像を祭る(多神教の)教えは、悪魔の創作と見えた。悪魔が、人間の自然に備わっている信仰心を悪用し、たくみに唆して、創造主への信仰を横取りしていると見た。だから、悪魔に汚されないためには、その行事には絶対に近づいてはならない。

初期のクリスト教徒には、『黙示録』にあるような、最後の審判の時は、イエス使徒たちが死に絶える前に訪れる(つまり自分の生きている間にその時が来る!)、という切迫した思いがあったという。だから、絶対に悪魔に近づいてはならなかった。

こういう切迫した思いは、どうやら迫害が止む(313年)まで、続いたようである。

 

洗脳。この世の中で、自分は何故このような理不尽な目に遭うのか、人間はなぜこんなにも残酷なのか、などなど、考え始め、答えを求めると、一神教的な宗教に行きつく可能性が高いような気がする。

多神教的な世界は、どちらかと言うと、穏やかな、現状肯定的な世界観のような気がする。まあまあ、現状に不満がないわけではないが、根底まで疑うような、不条理を感じるところまでは行かない。全体に曖昧で、よく言えば包容力がある。少しぐらいの違いには目をつぶる。仲よくする。和を尊ぶ。

それに対して、一神教には、イエスかノーか、善か悪か、信じるか信じないか、お前は敵か味方か??  はっきりした意思表示が求められるようなところがある。

だから、多神教の世界では、嫌われる。しかし、嫌われても、それに耐え抜けば、息の根を止められることはない(せいぜい村八分)から、生き残り、また息を吹き返すときもある。

それに対して、一神教の世界になり、そこで破門されれば、おそらくは、生きる場所は何処にもない(少数派は異端として排除され、多くは消えていった)。そういう厳しい意思表示が求められる。

 

ような気がする。勿論、現代の事ではない。第十五章を読んでの感想である。

 

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多分、これが今年最後の投稿になると思います。

愛想なしの記事を読んでくれてありがとうございます。

来年はもう少し、内容のある記事を心がけたいと思います。

 

良いお年をお迎えください。合掌