お釈迦さまのおさとりの様子は、『華厳経』の初めに詳しく描写されている。確かにそのようであったと思う。
しかし、お釈迦さまの最初の説法は、四聖諦である。また、縁起の理法である。これも確かなことであろう。
ただ、私などは、ここに大きな溝を感じてしまう。まあ、天台大師もまた、それを感じて、ああいう壮大な体系を築いたのかもしれない。が、ボクなどはそういうことは全く考え付かず、もう名前も覚えていないのだが、お釈迦さまのある弟子のことを思い出す。
悟りの境地に5度も6度も到達しながら、そこに留まれずに元に戻ってしまうのを悲観して、最後には、いい境地に入ったまま、自殺してしまう。
これはとても親近感があり、わかるなあ。
まあ、2番ではダメですか、という言葉が流行ったことがあるが、あの言葉を思い出す。
お釈迦さまは、悟りの境地に1か月以上も留まり、仔細に観察した。その間には、
このお弟子のような経験もしただろう。・・・その中から、最初の説法のアイデアが生まれたに違いない。
迷っていた時と、迷いに入る端緒と。様々なことが徐々に分かってきたに違いない。
こころのあり様についての、観察を続けた。
・・・お弟子は、その根気がなかったようだ。なぜなら、勝手に描いていた目標があったから。ではないのか
道のないところを歩くのと、道をたどって歩くのとの違いではないだろうか。
もう少し時間をかければ、そのことに気づいたのではないだろうか
・・・・・
もちろん、そんな簡単な話ではないだろう。
まあ。4日過ぎて疲れが出てきたところなので、息抜きである。