『列子』より ほか

列子はなかなか面白い。・・・あまり教訓的ではないかも。

・・・何時の時代のことなのか、とおもうところもある。

 

たとえば

【邯鄲の住民たちが正月の元旦に、鳩を趙簡子に献上した。趙簡子はたいそう悦んで、たくさん褒美をあたえた。ある客人がそのわけをたずねると、趙簡子はこう答えた。

「正月の元旦に生き物を逃がしてやるのは、わしの恵みぶかいことを示すためなのだ。」すると、その客人はいった。

「住民たちはあなたが鳩を逃がしてやろうとしているのを知ったら、われ先にと争ってつかまえようとして、かえって命を落とす鳩も増えましょう。あなたがもし本当に鳩を生かしてやろうと思うなら、人民をとりしまって、つかまえさせないようにするのが一番です。つかまえておいて、そのあとで放すのでは、生き物を逃がしてやる恩恵と生き物を殺す罪過とが、決して帳消しにはなりますまいよ。」

趙簡子は「なるほど、そうだ」とうなずいた。】下巻p213

 

これなどは、仏教の影響が感じられる。ということは、後漢のころではないか

・・・殺生戒などは、それ以前の中国に(ハッキリしたかたちで)あったのだろうか。

 

ちなみに、ボクはインドに行ったときに、ガンジス川に、魚を買って川に流すという儀式をしてきた。どんな魚が住んでいるのか興味があったし、まあ、(彼らの)足しになれば、とも思った。

 

また、これも面白い。

 

【むかし、斉の国に金(きん)がほしくてならない男がいた。ある晴れた朝、ちゃんとした服装をして市場に出かけてゆき、金を売買する商人のところへゆくと、すきをみていきなりそこにあった金をひっつかんで、逃げ出した。役人が追っかけて、その男をひっつかまえてなじった。

「お前は、こんなに大勢人がいるのに、人さまの金をかっ攫うとは、いったいなにごとだ。」すると、その男はこう答えた。

「金をひっつかんだときには、人なんか目に入らず、ただ金だけが見えたんです。」】

p221

 

 

これは『列子』最後の話ですが、これ(この話を最後に載せること)もかなり新鮮な感覚のような気がします。

少し前p205に《多岐亡羊》の話があるのですが、これ以降、肝心のところからどんどん離れて行ってしまうような・・・といって、肝心な話とはいったい何なのか。

政治の話でしょうか、正義のことでしょうか・・・真心??

 

列子』にはアナーキーなところがあるように感じます。年寄り向きの本というべきでしょうね。

 

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明日。ペルーでは大統領選挙の投票日のようですね

今回は、新型コロナの影響でとくに左傾化しているのか・・・どうなのだろう。

 

 

 

 

『筋読み』(宝島社文庫)

なかなか面白い。一気読み

世の中の犯罪の90%以上は、多分、相変わらずのものだろうとは思うが、

ごく少数は、こういう犯罪もあるのだろう、と思う。

捜査員も大変だ、と思わせられる。

 

・・・これからの加速する時代についてゆけるのは、少数で、大多数は何が何だか分からないままに、生きてゆくことになる・・・ことを感じさせる。

 

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列子』(岩波文庫)を読み始めた。何回目になるか・・・こういう「よくわからない」ところのある本は(ボクは) いいね!

 

 

 

4月8日

花まつり。誕生仏に甘茶をかけて、ちょっと坐った。

 

独りなので、作務衣で坐る。いろいろ思いが浮かんでは消えてゆくのだが、今回は、最近中国の歴史ファンタジーを見たこともあり、関連したことを思った。

 

お坊さんは今でも、中国の1000年前とあまり変わらない衣服を着ている。・・・食事は、朝はおかゆ、昼はしっかり食べて、夕方は残り物をオジヤ(雑炊)にする。これは今でこそお坊さんだけだが、昔は、そういう人が多かったのかもしれない。なにしろ電灯はなく、ロウソクなども貴重品だったろうから、夜ゆっくり食事が作れたとは思えない。(ほとんどが農民であった)

 

お坊さんは変わったことをしていたのではなく、みなと似たような生活をしていたと思う。ただ、社会は変化してきたが、お坊さんの生活はあまり変わらなかった。

急激に変化してきたのはつい最近のことで・・・、65年ほど前、ボクが小学校へ行き始めたころは、まだ、すこし山の上の友だちの家に電気が来ていないということがあった。たしかボクの住んでいる地区に電気が灯ったのもその2年ほど前のことであった。ボクが4,5歳ぐらいの時。

 

・・・今はどうだろうか。お坊さんの生活も大きく変わってしまったのかな

 

そんなことを思うともなく思っていたら、『荘子』のなかの寓話を思い出した。

 

機械を使い始めると、機事(あれこれ工夫することか)あり、機事あれば、機心(工夫するこころ、あれこれたくらむ心)が起こってくる、云々

 

まあ。これは世間では貴重なことなのだが、修行の妨げである。だから、1000年たっても同じような生活をしている・・・

 

でも、この話には続きがあって、機械を使わないというのは、一を知って二を知らないものと言うべきだ、と批判されている。世間から取り残されることが修行ではないだろう、と。確かにそういわれればそうだが・・・

 

お釈迦さんのお弟子たちは、後の世に、小乗の徒(自分のことしか考えていない)と貶められている。それと似ているかもしれない。

 

・・・・・・・

 

結論を出したいのではない。何かを主張したいのでもない。ただ坐っていて湧き出した思いをちょっと書いただけである。

(ボクとしては、機心を否定する時節もあっていいと思っている。)

 

 

 

 

 

 

近況

やっと少し落ち着きはじめたかな

心臓がチクチク痛み、脈が頻繁に跳ぶ、胸に圧迫感があり、背中もすこし痛い。

風呂に入るのが躊躇され・・・ときどき胸ポケットに触って薬を確認する。

 

昨日、歯医者の診察台に横たわっていて、まだ少しばかり胸が気になっていたが、歯を削られ始めると忘れてしまった。

車のタイヤ交換のために修理工場へ向かう時も、運転を始めると胸のことは忘れてしまった。

・・・・あまり用心して、心臓のことばかり気にしていると、心臓だけがボクの世界ということになりかねない。

・・・少し調子悪かったのは確かであるが。手放すべきであろう。

 

近所の知人が、(血圧が下がりすぎて、)立ち眩みから転倒し、頭を打ち、救急車で運ばれるということが、10日ほど前にあった。

血圧を下げる薬が効きすぎた、ということであろうか

・・・春先は、気温の変化も気圧の変化も激しく、体調管理の難しい時ではあるが、薬の効き具合も変化するのであろう。歳を取るというのはなかなか・・・ちょっとしたことで影響を受けるようだ

 

サクラは散ってしまったようだ。昨日車を走らせながら見た山の様子は、一週間前とは全く違っていた。

 

まぼろしの維新 西郷隆盛、最期の十年』津本陽 (集英社文庫)を読み始めた。

津本陽の作品を読むのは、初めてである。古流の剣を学んでいる友人が、津本氏の剣の描き方を悪く言っていたので、つい読む機会がなかったのである。

今回借りてきたのは、読み通すつもりではなく、征韓論挫折がどう描かれているかを見たいだけである。

今、初めから読みはじめた。さいごまで行けるかどうかは分からない。なにしろ、ずいぶん、悪口を吹き込まれているので。

 

 

『琅琊榜ろうやぼう』  さいごに

第二シーズン

ドラマの最初の、配役のところで、”セミ”がでてくる。

 

15回かそのころに、敵役が、「セミをカマキリが狙い、それをスズメが狙っている。みんな自分をスズメだと思っているが・・・」と独り言を言うところがある。

まあ、彼から見れば、長林王府のひと(とくに世子)は、自分をスズメだと思っているセミなのであろう。

(全部見た感想では、次子;主役こそが、標的ではない;駒なのだが、結果的に、セミであったというように思える。)

こういう見方では、固定的にそうだということは出来ないので、きわめて相対的であろう。狙っているつもりで、実は狙われている・・・

 

これは確か『荘子』のなかにある寓話の一つである。

 

そういう目で見ると、第一シーズンでは、配役の所で、サナギが蝶になって飛び去るさまが描かれていた。あれも、『荘子』を受けているのだろう。

有名な、夢に胡蝶となる、話。謀士蘇哲は、林家の長男が(死んで)生まれ変わった姿である。あるいは、変化した姿。

 

荘子』は、きわめて相対的な、相関的な、見方をする。重々無尽な写し合い、とでもいうのだろうか。

このドラマの作り手も、そういう描き方をしているのかもしれない。

 

・・・アメリカドラマになれている目からは、ゾンビ映画と見れないことも無いかも。

 

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サクラは満開を過ぎ、散り始めている。あっという間だ。

 

 

 

3月はさる・・・

まあ、毎日ビデオを見ていれば知らぬ間に時は過ぎ去る。ということでもあるか

 

将棋の先生Kさんが、一時(今もかも)、韓国ドラマにハマってしまった、と言っていたが・・・

 

一回見たドラマを続けて二回見ると、いろんなことに気づく。その第一は、流れを追うのに忙しくて、いろんなことを見落としているということ。

推理小説を読んでいる時のように。目の前にハッキリ見えているのに、目はそれを見ようとしないのである。

まあ。これは何億年という長い間で獲得した”予知”能力のせいなのだろう。少しでも先が読めれば!!!という思いで、実際に少しだけでも先が読めるものが、多分生き残ってきている。だから、今を写真のように写すよりも、一瞬後を予測するように、頭というか身体全体が働くようにできている。

・・・・・これは、いいところもあるが、欠点もある。たぶん、騙されやすい、ということも其処に原因の一端はあるだろう。

自己保存の本能のようなものになっているところに、ささやかれると・・・判断を誤る。

 

鳥は、群れで行動するようだ。ある一羽が私の影を捉えると、声を出す。すると、岸で日向ぼっこをしていたり新芽を食べていたものたちが、一斉に川に飛び込む。これは、たぶん有効なのである。

 

人間にも、似た傾向はあり、うわさ話に乗りやすい。とりあえずみんなと同じように動く。実際の所、何が起こっているのかは、わからないままに。

たぶん、大抵はそれで間に合う。

しかし、個の判断が重要な局面では、それは必ずしも賢明ではないかもしれない。

でも他にどういう方法があるというのか。

 

今のような時代、自分の努力で、情報収集がある程度出来る。かならずしも尻馬に乗る必要はない時も多くなってきているかもしれない。しかし、群れないことにはリスクも多いかも。

 

とにかく、まだ分からない先を読もうとする。これはほとんど本能のような気がする。

ドラマを最後まで見終わって、もう一度見ると・・・ぜんぜん違って見えてくる。なぜか。先を読もうとしないからだ。たったそれだけのことで、もう違うドラマになっているのである。

 

・・・・

 

ボクたちは、生きている限り、進化の産物という業を背負っている。琅琊山主ではないが、手放すのがなんと難しいか、あらためて思うのである。

 

・・・・・・・・・

 

今。2026年3月で3Gが終了するということで、通信業界は大攻勢をかけている。それに踊らされた人々が大勢いるようである。乗り遅れまいというのであろうか。

・・・2026年になってから考えればいいとは、思わないのである。

われわれの頭は、というか我々は、ちょっと先のことを考えようとしてしまうのである。それで得をする人も多いだろうが、踊らされる人はどうなのだろうか

おなじあほなら踊らにゃそんそん  か。

 

長編ドラマを十日、日に10時間見続けて、こういうことを思う。

 

ちなみに、まだ将棋を指す自信はない。自分の心臓に自信が持てない。今回も、これだけドラマを見続けて、すこし異常を感じているのである。負けるのが嫌いなので、指すからには全力を投入してしまう・・・。自信がないのである。