仏像彫刻

休講が続くので「花菱文様」を彫ろうと思いましたが、しばらく考えて、〈少し難しいものに挑戦しよう〉と考えを変えました。

 

【お地蔵さんの頭部】。これは、たぶん普通なら3年目ぐらいに挑戦する課題だろうと思いますが、今、先生不在なので、やってみようと思います。

 

先生から材料を頂けないので、材料は杭です。確か消費税込みで100円ぐらいでホームセンターで買ったものですから、間伐のスギ材かと思います。ノコギリを使っても、匂いはほとんど感じられませんでした。そういう意味では、匂いのよい材料で彫りたい気はします。

 

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どちらが頭か決めかねたので、とりあえず、写真のようにしました。

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寸法は;尺で表示

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とりあえず、ノコギリを使ったところ。

今度は完全な三次元ですので、楽しみです。ただ小さなものなので、油断なく手順通りに進め、怪我しないように注意しようと思っています。

 テキストは、『仏像彫刻のすすめ』p57~73 です。

 

 

 

身辺雑記

仏像彫刻の休講がつづきます。文化センターも、迷った末の連絡なのでしょうが。

お願いしてある新しい木材も手に入らず、仕方ないので、

以前、使うつもりで買ってそのままになっている、杭があるので、それに花菱文様を彫ろうとおもう。

作品展に出してもらえますか、との問い合わせがあったが、迷っている。顔が見栄えのするように彫れていない、まあ、自分に似たらそういうことなのだが。

・・・・これから彫る花菱文様を出そうかな。

文集にも文章を書くつもりでいた(楽しいなあ、という感想を書くつもりでいた)のだが・・・これも迷っている。文章は、どの角度から切り取るかということだろうが、ボクは大体いつもズレてしまうからなあ。楽しいとは書けそうにないから(実際は彫っていると楽しいのだが)。

 

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正法眼蔵』第一冊、辨道話。第二冊、古鏡、有時、授記、全機、都機、画餅。第三冊、仏道、密語。と読み進んでいる。といって、細かいところまで理解しているわけではない。高校生の時、各ページに沢山分からない単語があるのだが、出来るだけ辞書を使わないで、読もうとした、あれに似ているかもしれない。(分からない単語が重要で、まったく頓珍漢な訳をしていることも多かったことを思い出すが、それに似ているかも、と思いながら、読んでいるときもある)

 

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昨日の朝など、ずいぶんと秋らしいと感じた。日中は30℃を越えていたが、それでも歩きやすかった。途中胸が苦しくなることもなかった。

セミの声や虫の鳴き声や、そういうものが、季節の移ったことを感じさせるからでもあろうか。それとも、身体が35℃以上を経験した後だからだろうか。

 

散歩中誰にも出合わない。そういう時間帯を選んで歩いているのだが、それでも、昨日は傘を差したおばあさんに出会った。お互いにマスクをしていないからだろうか、緊張してすれ違ったように感じた。

散歩道もずいぶん草に覆われてきている。他の時間帯もあまり歩かなくなっているのかも知れない。

 

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無題

昨日久しぶりにKさん(将棋の先生の)が訪ねてきた。

孫が、一歳になる。それで母親の産休がおわり、復職するのを機に、保育所に預けることになった。すると、お爺ちゃんは孫の守りから解放された。

しかし、解放されてみると、手持無沙汰である

・・・親戚のところを訪ねたところ、そこの息子がコロナ感染者の濃厚接触者の友人ということで、しばらくは出入りしない方が良いということになり、

まあ、私の所に遊びに来たわけである。

 

そういう事情を話し終わって、久しぶりに喋ったなあ、と満足気であった。

 

三人で住んでいるのだが、家族で話すことはほとんどなく、日常生活は言葉なしに済んでしまうわけだろうから、

たまには、思いきり喋ってみたいのだろう。

 

ボクが将棋を止めてしまったので、ここ数年定期的にお喋りしていたのだが、それもなくなり・・・ヒトに会うのが好きな人間には、ちょっと辛い日々であろう。

 

今度一緒に飯を食べましょう、と言って帰っていった。

 

・・・・・・・

 

正法眼蔵』十二巻には目を通した。感想がないわけではないが、内容紹介も必要だろうから・・・その根気はないので、書くのは止めておきます。

引き続き、七十五巻本のほうに入ろうと思います。これも、内容に触れることはたぶんないでしょう。

 

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今のところ、今日は散歩日和のようだが・・・・

 

 

一枚の油絵

ある人から頂いたものである。

特別大事にしていたわけではないが、毎日見えるところに飾っていた。

私も、健康不安が大きくなり、これを、博物館に寄贈しようと思い立って、問い合わせてみたところ、

博物館で飾るにはサイズが小さすぎる。ということで、(言葉は丁寧ながら)断られてしまった。

 

まあ。確かに小さい。博物館が、この作者の沢山の作品を所蔵しているなら、小さいのもあってもいいだろうが、これ一枚では・・・。

また。今時では画家も少なくない。収蔵品も相当たまっていて、有名な方の作品ならともかく、そうでなければ、収蔵場所は限られているのかも知れない。

本などなら、USBなどに収めることも出来るだろうが、絵画などはそれは難しいだろうから。そうとう場所を取る。

 

これは、自分の手元に置いておく因縁のあるモノなのだろうと、思い直した。

 

ブログに掲載したことがあるかどうか、過去の写真を探してみたが見当たらないので、多分このブログには掲載していない(・・・以前ヤフーブログをやっていた時に載せたのだろう)ようなので、ここに掲載する。

 

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サイズは30×30㎝。たまたまこう写しているが、逆でもいいし、縦でもいいと作者に言われている。

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この方向で飾っていたこともあるのだが、自分の心臓の調子が悪くなってからは、止めている。

 具体的なというか写実的な絵ならともかく、こういう抽象画は、どうしても、知っている何かと結び付けてしまう・・・心臓とか。

そういうことを避けたいので、私は、私なりに、「葛藤」という仮題を付けて見ているのだが。本当は何もない方が良いのかも知れない。

 

作者のサインは、青い部分に、青で書かれていて、よく見ないと分からない。

 

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今年はミンミンゼミが少ないようだ。今はツクツクボウシがよく鳴いている。

稲穂が垂れてきているが、例年よりは青いようだ。お天気の関係かも。

散歩の通り道の川沿いの崖に、ハギが咲いています。

百合も咲いていますがこちらはそろそろ終わりでしょうか。

歩いているとバッタがよく跳び出すようになりました。

 

 

 

 

酔っぱらったバラモンの話

何しろ長い年月の事だから、徐々に考え方も変わっていったので、必ずしも時系列をたどらない。

 

とにかく、バラモンの話をしよう。

 

これは大智度論第十三巻に出ている話らしい。(私もこの大智度論は目を通したことがあるのだが、この話には気づかなかった。私は当時、般若〈智〉とはどういうことか、というテーマを決めて読んでいたので、大智度論のごく一部しか視野になかった)

 

お釈迦さまが祇園精舎におられたとき、一人の酔っぱらったバラモンがやってきて、お釈迦さまに出家したいと申し出た。お釈迦さまは、頭を剃って法衣を与えた。バラモンは酔いが醒めて、自分が出家の格好をしていることに驚愕して、走り去った。

そこで、お釈迦さまのお弟子たちはお釈迦さまに問うた。どういう理由でこのバラモンの願いを聞いて出家させたのですか

お釈迦さまは答えた。このバラモンには、どんなに長い時間の中でも、最初から出家の心はない。今酔っぱらったために、僅かに心を起こした。この因縁のゆえに、後には当に(かならず)出家得道するだろう。p63,64

 

こういう話である。

 

(この話を読んで、手塚治の「火の鳥」を思い出す人が居るかもしれない)

 

心を起こす。発心だが、これについては75巻本正法眼蔵の第4巻身心学道などが詳しいかもしれない、が、こちらは、これが同じ日本語かと思うほど読みにくい。

以前読んだことはあるのだが、今のボクには手に余る。だから、そちらは興味ある人に読んでもらう事にして、この酔っ払いの話のつづきに戻るが;

 

ボクは、自分の気持ちを整えて、身辺整理して、出家するものと思い込んでいた。

ところがp93にはこうある。

仏祖の正法かならずしも知不知にかかわれず、出家は仏祖の正法なるがゆえに、その功徳あきらかなり。

知って出家することもあるが、知らずに出家することもある、と。お寺の子供などは、知らないうちに出家する方かもしれない。

 

しかし、考えて見れば、ボクなど、もっと不純な動機で出家した方かもしれない。

なぜ出家したかと言えば、坐禅をしたいため。なぜ坐禅したいかと言えば、言葉の延長には虚構だけがあり、言葉以前に遡る方法は、多分坐禅だと思ったからであった。だから、出家とかお坊さんとかにはほとんど関心がなく、禅定の先にあるモノにだけ関心があったのであった。

 

ところがここには、ずいぶん違うことが書かれている。それこそ、言葉以前の消息が言葉でもって。

 

~のために~する。という思考とは全然別な考え方。

刹那に滅却す阿鼻の業、という言葉があるが、どういうわけか分からないが、発心する。そして、それを悔やむ、バラモンが居る。

 

ボクは、坐禅のためなどと言って出家したのだが・・・坐禅というのは、このバラモンのお酒とどれほどの隔たりがあるのだろうか・・・。

~のため、という見方を外して、眺めてみれば・・・

 

・・・・・・・

 

やはりこれぐらいの長さでは、言いたいことは言えないな。

何を言っているのか、ちょっと分からないですね。

しかし、消さないで置いておく。

 

  

 

 

 

 

 

『正法眼蔵』(岩波文庫)

全部で4冊ある。(30年以上前の本だから、もう古本しかないかもしれませんね)

 

解説によると、道元禅師(1200~1253)には、いくつかの『正法眼蔵』といわれる著述がある。その中で、道元禅師が一番最後の頃に構想していたのが「百巻の正法眼蔵」で、その12巻まで書いたところで、病気で亡くなった。

 

百巻の正法眼蔵に取り掛かる、それ以前に、道元禅師が書き続けていた75巻の正法眼蔵がある。また後に、弟子たちの編集した95巻の正法眼蔵もある(確かこれが本山版)・・・

 

私が勉強したころは、まだこの岩波文庫が出る前で、古い岩波文庫は絶版になっていた。それで、「本山版 正法眼蔵」というのを使って読んだ。

 

今回は、寝転がって読むのに佳い、文庫本を手に取っている。

その第一冊から第四冊の途中までは「75巻本正法眼蔵」である。そこを後回しにして、最初に、禅師が最後に構想されたところの「12巻正法眼蔵」(第四冊目途中から)を読み始めた。

 

その第一巻『出家功徳』

出家の功徳について書かれている。

 

ここに、何度読んでも、心が動かされることが書かれてある。誰もがそうなのかは分からないが、私は大きな衝撃を受けた。

もう坐禅を始めてから10年ほど過ぎていた。出家してからでも9年ぐらい経過していた。

未だに坐禅に拘り禅定に拘っていた。そういうときに、読んだ。

 

酔っぱらったバラモンの話。それから、蓮華色比丘尼の話である。

 

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ここまで書いて、本文の引用をしようとしたのだが・・・相当長くなる。それに自分の受けた衝撃の説明は、説明するのはもっと長くなりそうで・・・また、この30年前のことが少しづつ思い出されてきて・・・

 

中断することにした。削除してしまってもいいのだが、いま正法眼蔵を読んでいることは書いておきたいので・・・・まあ、中断したことも記しておくことにした。

 

一言でいえば、私の中で初めて、【坐禅】が【仏法】と結びついた。あるいは葛藤した。

しかし、分かるように話そうとすれば長くなる。

 

・・・・・・・

 

ところで。今日の【産経抄】には、本当に久しぶりに、分かりやすい、当たり前のことが、書かれている、と思いました。

こういうことが言えるようになってきたのですね。

・・・振り子が振れ過ぎるのは困りますが・・・。

 

・・・・・・・

 

 

 

雨ですね

地球温暖化ということなのでしょう。例年8月15日ごろには、地獄の釜の蓋が開く、と言われるほど暑い(熱い)のが当たり前のように思っていたが、今年は、すこし凌げるかも。・・・今日は相当降るような予報が出ているが・・・。夕立とは違うなあ

秋雨前線が掛かっているのだろうか

 

その原因はいろいろあるのでしょうが、ともかく、私のような非力なものは、

その中で、何とか少しでも快適に過ごすことを考えるだけである。

 

この前まで、暑い中で散歩すると、胸が苦しくなった、つまり脈が乱れた。それが夜中まで続くこともあった。しかし、昨日は、途中2回ほど立ち止まっただけで・・・帰ってから短時間で落ち着きを取り戻した。

ボクの身体にとっては、この雨は有難いようである。

 

久しぶりに、『正法眼蔵』など開いている。

若い時には、一所懸命、読んだが、住職を引退してからは、その他の本ばかり読んできた。しかし、残された時間があまり無くなってきたようなので、また、手に取ってみようという気になったのかも知れない。(こういう言い方をするのは、自分で読みたいと切に願って読むのではなく、不図思いついて手に取った、という感じだから)

 

眼が見えるうちに、頭が働くうちに、根気が続くうちに・・・。

 

数日前、台風の後で、道路に落ち葉が散乱したので、掃き掃除をした。やく10分で、腰が痛くなり始め、20分が限度であった。結局、狭い範囲を掃くのに、2日掛かってしまった。(元気な時なら15分もあれば全部終わるぐらいの仕事量かな)

まあ。能率は上がらない。読書も似たようなものである。

 

若い時は、まず書き写してから、よく分からない言葉を調べて・・・いたのだが、今は、寝転がって、目を通すだけである。補注もほとんど無視。

 

正法眼蔵』を寝転がって読むようになろうとは・・・。

 

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前の道路に3台の車が止まっている。どうやら隣の家に用事があるらしい。在宅介護関係の車のようである。ということは、おばあさんが転んだかして、動けなくなった可能性が大きい。

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