酔っぱらったバラモンの話

何しろ長い年月の事だから、徐々に考え方も変わっていったので、必ずしも時系列をたどらない。

 

とにかく、バラモンの話をしよう。

 

これは大智度論第十三巻に出ている話らしい。(私もこの大智度論は目を通したことがあるのだが、この話には気づかなかった。私は当時、般若〈智〉とはどういうことか、というテーマを決めて読んでいたので、大智度論のごく一部しか視野になかった)

 

お釈迦さまが祇園精舎におられたとき、一人の酔っぱらったバラモンがやってきて、お釈迦さまに出家したいと申し出た。お釈迦さまは、頭を剃って法衣を与えた。バラモンは酔いが醒めて、自分が出家の格好をしていることに驚愕して、走り去った。

そこで、お釈迦さまのお弟子たちはお釈迦さまに問うた。どういう理由でこのバラモンの願いを聞いて出家させたのですか

お釈迦さまは答えた。このバラモンには、どんなに長い時間の中でも、最初から出家の心はない。今酔っぱらったために、僅かに心を起こした。この因縁のゆえに、後には当に(かならず)出家得道するだろう。p63,64

 

こういう話である。

 

(この話を読んで、手塚治の「火の鳥」を思い出す人が居るかもしれない)

 

心を起こす。発心だが、これについては75巻本正法眼蔵の第4巻身心学道などが詳しいかもしれない、が、こちらは、これが同じ日本語かと思うほど読みにくい。

以前読んだことはあるのだが、今のボクには手に余る。だから、そちらは興味ある人に読んでもらう事にして、この酔っ払いの話のつづきに戻るが;

 

ボクは、自分の気持ちを整えて、身辺整理して、出家するものと思い込んでいた。

ところがp93にはこうある。

仏祖の正法かならずしも知不知にかかわれず、出家は仏祖の正法なるがゆえに、その功徳あきらかなり。

知って出家することもあるが、知らずに出家することもある、と。お寺の子供などは、知らないうちに出家する方かもしれない。

 

しかし、考えて見れば、ボクなど、もっと不純な動機で出家した方かもしれない。

なぜ出家したかと言えば、坐禅をしたいため。なぜ坐禅したいかと言えば、言葉の延長には虚構だけがあり、言葉以前に遡る方法は、多分坐禅だと思ったからであった。だから、出家とかお坊さんとかにはほとんど関心がなく、禅定の先にあるモノにだけ関心があったのであった。

 

ところがここには、ずいぶん違うことが書かれている。それこそ、言葉以前の消息が言葉でもって。

 

~のために~する。という思考とは全然別な考え方。

刹那に滅却す阿鼻の業、という言葉があるが、どういうわけか分からないが、発心する。そして、それを悔やむ、バラモンが居る。

 

ボクは、坐禅のためなどと言って出家したのだが・・・坐禅というのは、このバラモンのお酒とどれほどの隔たりがあるのだろうか・・・。

~のため、という見方を外して、眺めてみれば・・・

 

・・・・・・・

 

やはりこれぐらいの長さでは、言いたいことは言えないな。

何を言っているのか、ちょっと分からないですね。

しかし、消さないで置いておく。