徒然なるままに

体制が崩壊する、と、守られている状態から、孤立無援の状態に落ちる。

・・・外国に旅行していても、まあ、パスポートを持っていれば・・・

持っていても、自国が守ってくれない、ということがないわけではないかもしれないが。普通は守ってくれるものと信じている。

そういう守ってくれるものが、崩壊してしまったら・・・

 

ペルーで、先駆者と言われる人何人かに話を聞いたことを思い出した。4年後に帰るつもりで国を出たのだが、帰るまでに、帰る国がなくなってしまった・・・

 

 

孤立無援の状態に落ちると、頼れるのは、家族と、友だちであろう。

それで不安なら、結局、民族のようなものが、あるいは、宗教のようなものに頼ることになる、そういったものが自然に表に出てくるのだろう。孤立無援の無力な立場にはヒトは堪えられないだろうから。

そうすると、内と外、敵と味方が形を取ることになる・・・

 

体制が崩壊する。それはどういう時に起こるのだろうか。

働ける人が激減し、保護しなければならない人が増えすぎた時か・・・

金がなくなり、破産した時か

公務員に支払う金がなくなってきたときか

公務員になり手がなくなって、あるいは質が低下してきたときか

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ボスニア戦争とヨーロッパ』ノロノロ運転のような読書だが、読むよりも、本を伏せて物思いに沈む時間の方が多い。それでもやっと、半分ほど進んだ。

ふと、以前読んだ『現代ドイツ』(岩波新書)を思い出し、押し入れの中から引っ張り出し・・・ぱらぱら捲ったりしている。

 

変化の時、揺さぶられて、落ちてゆくのは弱い者であろう。弱いというのは、いろいろあるが、多分、孤立していると、弱い。・・・群れる方向性が出てくるのだろう。

 

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彫刻をしていて

目前の行動(何処をどう彫るか)だけでなく、いろいろ思うこともある。

 

願をかけて作られた仏像、練習として彫られた仏像・・・

何方も区別できない。

しかし、心の中で区別している・・・

・・・毎日手を合わせている仏像・・・練習用として作った仏像が礼拝されることもあるだろう

・・・・願掛けて作られた仏像が放置されることもあるだろう

 

・・・今、人のお参りする場所の仏像も、どういう因縁で作られたものなのか

それとは知らずにお参りされているのだろうなあ

・・・仏壇の前で、手を叩く人も少なくない。

 

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自分で彫った拙い仏像を、踏みつけるには抵抗がある。

何となく袱紗に包んで・・・と思う。

 

墓石の古くなったのをそのまま放置しておくわけにもいかず「精抜き」して、石屋さんに戒名の部分を斫って疵をつけてもらう・・・それを再利用できるのかと言うと、

それはなかなか難しい。横にして積んでおくのが普通だろう

ときどき、足で踏む石(階段の一部とか)に使われているのを見かけることがあるので皆無ではないだろうが、普通は躊躇される。

完全に表面を削って再利用できるかと言うと・・・・でも、インドではそのまま、普通に、再利用されていたなあ・・・日本だけの事か?

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印鑑なども、自分の知らないところで如何いうことがあるのかは知らないが

他人の使っていた印鑑がなかなかいい(象牙のような)ものなので、削って、自分の印鑑にしようという人がどれほどいるだろうか

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お金は、誰のものとも思わず流通するのに。不思議と言えば不思議な話である。

 

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ボクは、お坊さんになる前には、こういうことには何の感慨も持たず、平気でモノを捨てていた。戒名の彫ってある墓石を踏んでも何も思わなかった。踏んでいるという自覚もなかった・・・・今は自分の彫ったお地蔵さんでも踏めそうもない

ここでバーミヤンの石仏の破壊などを思い出した。

 

単に、朱に交われば赤くなる、ということなのだろうか。

 

他愛もないことかもしれないが、一瞬立ち止まる・・・・

 

 

 

 

 

 

またまた大黒さま

いま、これが最大関心事なので。

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顔を鉛筆で書き加えたら、少しは見られるようになりましたね

 

ここんところ、一つのことに多くの時間を使っているので、

怠け者の私が表に出てきて、

他の事は何もしないでボーとしていたがる・・・

読書の秋だというのに。

大黒さまの功徳だろうか

まだ彫り終わっても居ないのでそれはないだろうが・・・

新米を頂いた。今朝早速食した。いつもより多めに茶碗に盛る。

やはり新米はちょっと違う。おかずなしで食べたい気になる。

(まあ、実際は栄養を考え一菜を付けて食べたのだが)

 

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大黒さまの方は、どう彫ればいいのか、迷うことが多く、

本を見る時間が長くなってきた。

・・・何処をどう彫るか、漠然としたものでなく、具体的な、今ここでどう彫るかというところでの迷いであるから、見る焦点が定まっている。

そのような見方をしていると、だんだん立体像がイメージされてきて、

少しは彫れる気がしてくる。

ちょっと彫っては、写真を眺め、また少し彫ってはまた写真を見る・・・

 

先に功徳を頂いてしまったからには、頑張らないといけないなあ

(因みに、大黒さまは、米俵の上に立って、打ち出の小槌を持っている。台所の守り神のような存在である、蛇足ながら)

 

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総裁選が始まりましたね。私は、高市さんにやってもらうのも面白いのではないかと思っている。女性初。国防問題を腰が引けないで見ている。ボクなどそれは未来を考えている、じつに女の人らしいことと思うのだが・・・。

 

 

 

 

大黒さま

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お地蔵様の頭部は完成できないまま、大黒さまに移った。

大黒さまは立体である。6方向からどう見えるか、頭に置いておかなくてはならない。

 

最初に、実物大の見本図を写して、その線に沿って彫り始める。

写すときに、いちいち寸法を測って手書きするのもいいが、トレーシングペーパーとカーボン紙とを使うことを勧められた。

最初手書きで進めたが・・・線の位置がズレているように感じ、心配になり、トレーシングペーパーを使って書き直してみた。やはりずれていた。・・・もちろんトレーシングペーパーが写している間にズレてしまった可能性もある・・・

 

紅松は柔らかく、彫りやすい。独特の匂いにも慣れてしまったようで気にならない。

 

写真は、横から見て粗削りできるところを済ましたところである。これから、上から見て、削るところに取り掛かる。

削るたびに下絵の線が消えてしまい・・・

 

お地蔵さんの頭部を未完成のまま中断した理由は、彫刻刀をもうすこし切れるように研がないとこの先は進められないと判断した。今はその力がない。

今回は、サイズの違う彫刻刀を買う必要が出てくるかもしれない

 

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随分秋らしくなってきた。今年の彼岸花はずいぶん鮮やかである。ススキも目立つようになってきている。セイタカアワダチソウも微かに黄色みを帯び始めている。

ツバメがたくさん飛んでいる。・・・間もなく南に移るのだろう・・・インドで見かけたがあの辺まで飛ぶのだろうか・・・・

・・・セミの声はずいぶん微かになってきた・・・

 

 

 

 

読書『ボスニア戦争とヨーロッパ』

まだ途中です。

私は新聞も読まずTVも持っていないので、ボスニア戦争のことも全くと言っていいほど知らない。が新聞の見出し程度のことはネット記事で読んだことがある。それで、この春、除籍図書を持ち帰ったわけである。読むときが来るかどうか分からないままに。

今回アフガニスタンのこと(これも見出しぐらいしか知らないが)があり、目を通して見ようという気になった。長い間争いの渦中にある地域の事だから、似ていることもあるだろうと思ったのである。

 

この本は1994年に出ている。もう25年ほど前のことになり、その後のバルカン半島のことは書かれていない、今はどうなっているのか。

 

最初に、≪この本を読む前に≫という前書きがあり、「この本はボスニアで凄惨な戦争が続いていた1994年二月、ドイツのフランクフルト大学の‹ボスニア救援プロジェクト›・・・・・などが協力して企画、開催した国際会議「ボスニアとヨーロッパー紛争の原点」で発表された論文や報告、討論を記録したものである」とある。

 

まあ、私などには字面を追うだけでも難しい。地名一つにしてもなじみがない。

 

ただ、多民族・多文化国家というものが、次の世界(日本を含めて)の標準になりそうだが・・・。国家が管理機能を失うと、民族主義が出てくる。身を守ろうとすると、そういうことになる。・・・要は、身近なところで敵と友の関係が出てくるのだろう。

ホッブズの考察した社会状態に近いかもしれない)

 

・・・長い間戦時体制のような中で機能していた平和が失われた(政府が管理能力を失う)時に何が起こるか、そういう中で普通の人はどういう考え方をするようになってゆくのか、などなど。

考えてもどうしようもない事だが・・・解体しつつある田舎の共同体の中で何が起こっているか、などというところまでわたしの考えは飛躍する。

 

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とにかく、私は纏めるということが下手である。考えは広がる一方で・・・纏めることが下手というより、その気がないのだろうと思う。

まだ途中だが、読書も途中だから、今回はここまで。

 

 

 

 

 

身辺雑記

まあ、こう書き起こすしかないか。

 

またまた彫刻の事だが;知り合いが木材をたくさん持ってきてくれた。材質は、紅松という。独特の匂いのする木である。油の古くなったような匂い、昔のおばあさんの髪の匂いにも似ている(椿油かな)、といえばいいかな。松の種類だから油が多いのだろう。やわらかく彫りやすいとか。

大黒様を彫るのに丁度のサイズに切ってある。他人にあげるのには、仏像よりも大黒様だ、と。沢山彫って出来の良いものをヒトにあげる・・・・

 

確かに、仏像はヒトにあげにくいような気がする、よほど上達しても・・・。

大黒様なら、顔が上手く彫れれば、貰ってくれる人もいるかもしれない。

それは、彫る励みになるに違いない・・・。

 

大黒様は、米俵の上に立ち、打ち出の小槌を右手にもち、大きな袋を背中に担いでいる。お寺の玄関に韋駄天様を奉るように、一般家庭の台所に飾るに相応しいように思える。・・・・

 

大黒様の彫り方を調べて見たら・・・結構難しそうである。

立体感がはっきりつかめないと彫れないような・・・

 

ボクは、自動車教習所に通い始めたころ、永久に免許は取れないのではないかという絶望感のようなモノを感じたことがある。免許を取った後でもしばらくは不安感が去らず、ハンドルを握るたびに、手に汗が滲んだ。手に汗を感じなくなったのは、数か月後だったような気がする。

 

大黒様の彫り方を見ていて、そのことを思い出した。

 

いつかまともに彫れる日が来るのだろうか・・・永久に来ないのではないか

この立体感がうまく掴めるようになるのだろうか・・・

 

パソアパソ。一歩一歩歩いてゆけば、千里の遠きにでも達する、はず。

 

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