彫刻をしていて

目前の行動(何処をどう彫るか)だけでなく、いろいろ思うこともある。

 

願をかけて作られた仏像、練習として彫られた仏像・・・

何方も区別できない。

しかし、心の中で区別している・・・

・・・毎日手を合わせている仏像・・・練習用として作った仏像が礼拝されることもあるだろう

・・・・願掛けて作られた仏像が放置されることもあるだろう

 

・・・今、人のお参りする場所の仏像も、どういう因縁で作られたものなのか

それとは知らずにお参りされているのだろうなあ

・・・仏壇の前で、手を叩く人も少なくない。

 

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自分で彫った拙い仏像を、踏みつけるには抵抗がある。

何となく袱紗に包んで・・・と思う。

 

墓石の古くなったのをそのまま放置しておくわけにもいかず「精抜き」して、石屋さんに戒名の部分を斫って疵をつけてもらう・・・それを再利用できるのかと言うと、

それはなかなか難しい。横にして積んでおくのが普通だろう

ときどき、足で踏む石(階段の一部とか)に使われているのを見かけることがあるので皆無ではないだろうが、普通は躊躇される。

完全に表面を削って再利用できるかと言うと・・・・でも、インドではそのまま、普通に、再利用されていたなあ・・・日本だけの事か?

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印鑑なども、自分の知らないところで如何いうことがあるのかは知らないが

他人の使っていた印鑑がなかなかいい(象牙のような)ものなので、削って、自分の印鑑にしようという人がどれほどいるだろうか

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お金は、誰のものとも思わず流通するのに。不思議と言えば不思議な話である。

 

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ボクは、お坊さんになる前には、こういうことには何の感慨も持たず、平気でモノを捨てていた。戒名の彫ってある墓石を踏んでも何も思わなかった。踏んでいるという自覚もなかった・・・・今は自分の彫ったお地蔵さんでも踏めそうもない

ここでバーミヤンの石仏の破壊などを思い出した。

 

単に、朱に交われば赤くなる、ということなのだろうか。

 

他愛もないことかもしれないが、一瞬立ち止まる・・・・