『動物の賢さがわかるほど人間は賢いのか』2

動物を研究するうえで、二つの流れ、動物行動学者と比較心理学者の事が最初に書かれているが・・・門外漢が思うに;

研究するのに、動物に心があっては困ったのではないか。人間と似た心があると、切り刻むことが許されない。だから、言葉が喋れないことをいいことに、心も無い、と決めて、さまざまな実験をしてきたのではないかと。

物理学とか化学とかは、定量分析というか、検証実験が出来る形のものだが、動物の行動を観察して記録をとっていても、追認の実験が出来ない、それでは科学として認めてもらえず、一ランク低く見られてしまう、ということがあったのではないか。どうしても定量実験がしたかった・・・

そういう流れの中で、ダーウィンなども、科学者としては低く見られるようになっていった・・・

勿論こんなことは何処にも書いてないのだが、なぜ、変な実験が幅を利かせたり、動物を平気で切り刻んだりがまかり通ってきたのか、やはり、気になるのである。

 

日本のサルの研究も、どうやらヨーロッパで受け入れられるまで相当時間が掛かったようである。最初は軽く見られていた(相手にされなかった)・・・サル一匹一匹に名前を付ける、などというのは論外だったようだ。いまでも皆に受け入れられているわけではないのかもしれない。

 

飼育して観察する、これはやむを得ないことかもしれないが、生き物は食うために最大の努力をする、それが必要ないとなると、オオカミとイヌぐらいの違いは出てくるのではないか、などと思う。

 

ま。つまらないことを考えながらだが、面白く読んでいます。