正確な知識は、別なところで得てくださいね
『曙光』を読んでいて、先が見通せないような不安な気持ちになったと書きましたが、これを書いていたころ、ニーチェはやっと夜が明けて朝のひかりが差し込んでくるのを感じ始めていたのでしょう。それに付き合う私は、ハイキングの時にただ後からついてゆくだけの人のようなものですから、周りの景色が気持ちいいとか、そういうことがないと、退屈してしまう。ニーチェの真剣な、全生命が揺さぶられて不安と体調不良に悩んでいるらしい様子を見せられても、よく分からない・辛い。
あらためて、序文に戻ると、彼は、「道徳」の出自から何から調べ、人間の価値観の土台を掘り崩すことをやっていたらしい。ま、幾何学の基礎、公理をバラシてつくりかえるようなことと言えようか。
たしかに、ローマ帝国衰亡史を読んでいた時も思ったのだが、キリスト教が古代人の価値観をひっくり返してしまった。誰もが善悪・神の鎖につながれてしまった。
その締め付けが弱まってきたのが、ルネサンス以降、とくにこの時代は、ダーウィンの進化論も発表されて・・・
こういう基礎知識に当たるところは私には荷が重すぎる。
パスカルの『パンセ』。考える葦という言葉が有名ですが、あれを読んでみると、数学などの万能の天才の素質に溢れていた彼が、何故キリスト教に・・・蜘蛛の巣にかかったトンボのように見えて、哀れです。
ニーチェの目には、ナポレオンやゲーテが、ヒトのあるべき姿に映っていたような気がします。太陽の恵みをしっかり受け止め、与えられた可能性をのびのびと発揮する。
それを縛り、足かせをはめるのが、道徳でありキリスト教である、と。
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さて。こういう考え方が、なぜ、ヒトラーの政権に利用されることになったのか。
まだ、ニーチェの本は読み始めたばかりなのですが、これはここで中断して、
(ゲーテのファウストとちがい、マンの博士は、パスカルのように蜘蛛の巣に引っかかってしまったのだろうか・・・)
補足:Wikipediaで「ニーチェ」を見たところ、ニーチェとナチズムの関係は、ニーチェの死後、残されていた草稿を、妹の責任編集で完成した『権力への意思』に関係するようです。詳しくはそちらを見てくださいね。