この間までは、浴槽からお湯が漏れて、10センチほど水位が下がっていたのですが、修理できたようで、今朝など、浴槽に浸かると、身体の容積分のお湯が、ザーと溢れる。
まあ、贅沢の極みという感じである。
隣の女湯にも誰か来たようで、お湯を・・・≪湯水のごとく≫使っている。
家庭用の風呂なら、空になってしまいそうな使いっぷりである。
4年ほど前に此処に来たばかりの時は、チクチクと胸が痛んだ。罰が当たるのではないか。オレはどれほどの功徳を積んだというのか、と。
仏教は、特に大乗仏教は、シルクロードのオアシスで完成されたのではないかともいわれているようだ。西域の、バーミアンとかそのあたりは、当時の交通の要地であり、あらゆる人・かね・文化の結節点であった。
其処では、お金よりも水が貴重であった。・・・仏教徒は水を大切にする。食べ物もそうだが。
今は、もう間もなく死ぬ身であるし・・・使える時に使ったらいい、と思う。といって自分ではやはり控え目にしか使えない(肝が小さいのだね)のだが。
時・処・自分。いまここで出来ることをする。ということだ。ただ、これ(時も処も自分も)は固定したものではない、かなり融通無碍なところがある。
・・・・・・・
日本人は、早めに引退して、自由を楽しむ人が少ないと言われる。確かに、70代でも働いている人は少なくないようである。
私など、お坊さんなのに何故辞めてしまったのか、と言われた。確かにお坊さんに定年はない。だから、辞め時は自分の判断である。
いま、思うに、仕事がないというのは、辛いかもしれないな、と。
気がまぎれることがあるというのは幸せかもしれない。
何もすることがないと、過去のことが思い出されてくる・・・過去の、経験が乏しくヘマしたこととか、気遣いが出来ずに人を傷つけてしまったこととか・・・取り返しのつかないことが、何十年ぶりかで思い出される・・・。楽しかったことも、無知と背中合わせのように思えて・・・。
そういうことに取りつかれないためにも、忙しく気がまぎれる、ことは幸せかもしれない。
まあ。何事も、取り様だから。
そう一面でばかり見てはいけないだろうが。どうしても、一面だけで見るようなことに陥りやすいかもしれない。
夢でうなされる。こんなこと、記憶にない。夢そのものを見ることもあまりなかった。
・・・(夢の中で)取り返しのつかない状況の中で、藻掻いている・・・
・・・まあ。長生きは出来ないかもしれないなあ、などと思う。が、私はいい加減な人間(長い間そうは思っていなかったのだが、まあそのようですね)だから・・・これは、あまりにも日常生活が淡々と過ぎているので、アクセントのようにしてそんなことが起こるのかもしれない、とも思う。
・・・ペルーから、失意の中で日本に戻ってきたのが、5年前の今頃でした。それで少し感傷的になっているのかもしれません。