修行について、書いてみよう。
ボクには、一般論は無理である。から、かなり偏っているかもしれない。というより、そもそも、修行に一般論などあるのだろうか。・・・
修行というのはある特殊な、きわめて個人的な営みのような気がする。・・・修行に一定の成果が出て、また元の世界に戻る、ということになると、社会的な営みということになろうか(そちらの方が本式の修行のような気もするが)。
修行というのは、きわめて個人的な世界に没入することから始まる・・・。
お坊さんは、修行を頭を剃ることに例えることもある。普通の人は、爪切りに喩えたらいいかもね
生きていると自然に生えてきて、あるところまでは役に立つが、それ以上になると、邪魔になるようなものを、どう処理するか。そういうことが気にならない人も多いだろうが、気になる人には大いに気になる。生きていると自然に生まれる問題の数々。
人生の一大事だ。
しかし、役に立つというが、誰に?どのように?
ボクは、そもそも自分が要らない存在ではないか、と思った。生長するに伴い、何をしても小突き回され、やらされるのは自分のやりたくないことばかり・・・
人の役に立つことは自分に役立たないのではないか・・・
あまりにも迷いが大きく、部屋に閉じこもってしまったときには、親はこの子は精神を病んでいるに違いない、と考え、病院に連れてゆこうとした。
私はただ考える時間が欲しかったのであるが・・・まあ、貧乏だったから、無駄飯を食わせておける余裕はなかったし、外聞も好くないし・・・とにかくうるさい。
病人にされてしまうのはたまらないので、ともかく銭を稼いで食うことを考えないといけない・・・乞食がいいな、と思ったが、ここまで教育を受けさせて果てが乞食とは・・・親が寝込んでしまった。
ある程度カッコウのつく乞食は、禅坊主だ。あるとき、そういうことに気づいた。
いま思うに、この見立ては間違っていなかった。
自分の好きなこと(迷うこと)をして、飯が食える。贅沢は出来ないがクイッパグレはない。
・・・・。腹一杯迷ったら、重心の踏みかえのようなことが起こった。
修行の功積んでということなのか、どういうことなのかよく分からないが、「オレが悟るとか偉くなるとか(それが期待されていると思い込んでいた)」ということより、「いま・ここで必要なことをやる」ことのほうが大切になってきたのである。
まあ。これほど長い間、ぐずっていれば、そういうところに出てゆくだろうなあ
そして、自分の実力では大したことも出来なかったのだが・・・。
面白かったのは面白かった。・・・まだ終わっていないが。
12月1日から一週間。接心。それこそ、べつべつ解脱にいっそう心がける。
じっとしているのがだんだん辛くなってきているが、今年も、坐ることが出来そうである。