昨日以前住職をしていたお寺の仏像修復のことに少し触れました。
つづきを少し書いてみます。
今度『目で見る仏像』を眺めていて、菩薩像で坐禅をしている像があることに気づきました。「弥勒菩薩像」です。
56億7,000万年後に現れると約束されている仏で、いま兜率天で修行中という。ですから、菩薩でありながら坐禅している。ただ法界定印のかたちの手の上に宝塔を持っている。何故宝塔なのかは調べないと分かりませんが・・・。『華厳経』にあったかしら?
・・・・多分、100年後ぐらいに住職になった人は、私の作った観音像を弥勒像と考えるかもしれません。
というのも、住職をしている間に、ほとんどの仏像を修復したのでしたが、その中に菩薩ということは分かっているが何という名の菩薩なのかが分からないものが有った。
それの修復を頼んだときに、仏師さんはおそらく弥勒菩薩でしょう、弥勒菩薩として修復します、といって修復してくれた。
しかし私は弥勒菩薩ではないような気がした。というのも、一般にミロク信仰は普及していなかったように思うから。大きなお寺ならともかくこんな田舎の小さなお寺にミロク菩薩はないだろうと思った。それで、私は私なりに、この地域の古文書の類を調べたりして、実は「勢至菩薩像」の可能性が大きいことに気づいた。阿弥陀信仰はかなり広がっていて、その脇侍の「勢至菩薩」なら、あってもおかしくない。
しかし、もう弥勒菩薩として出来上がってしまった。ですから、今は弥勒菩薩として祀っている。
こういうことがあります。ですから、おそらく100年後ぐらいには・・・。
尚、弥勒信仰では、大本教が関連して思い出されます。大本教を訪ねた話もあるのですが、それは長くなるので、何時か機会があれば・・・。
今日は、なぜお寺の仏像修復をしたか。お金のあまりないお寺なのに・・・。その話をしてみましょう。
私は、お寺に縁のないところから、坐禅したいがためだけに、お寺に出入りするようになった。・・・最初に坐禅を指導してもらった「般若道場」は在家の禅道場で、出家を嫌っている人が多かった。最初にそういう洗礼を受け、その関係もあり、お寺に入っても、お布施を個人的なことに使うことに抵抗があり・・・生活は必要最小限、余ればお寺のために使う。そういう気持ちが強かった。
そういうことで、貧乏寺で、修復されないまま、長い間放置され、片手がないような仏像がほとんどだったのを、お金が出来るたびに一体づつ修復していった。もちろん施主は大歓迎だから、縁のある何人かには施主になってもらった。そういう関係の中で、修復ではない、新しい「観音菩薩像」も頼んだのである。
なお、最初に、この仏師さんに修復をお願いするようになったご縁は;
先代の息子さんが退職後仏像を彫り始めて、その最初の発表会に招待された、そのとき、生徒さんたちの作品だけでなく、先生の作品も展示されてあった。その先生の作品を見て、惹かれて、頼むことになったのである。
(こうして書いたのを読み返していると、最初に「観音像」を頼んで、そのあとで、修復もお願いしたのかも知れない。そういう前後関係は、もううろ覚えですね)
今日は、昔話をしました。
私は気が小さいから、貰ったお金を自由に使うことも出来なかった。・・・それだけの力があると思っているのか???と反省して。・・・地獄に落ちるぞ!!
( こういう思いがトラウマになっていて、無間地獄に落ちると思うようになったのだろうか・・・)