薬師如来坐像

私は、ペルーまでこの坐像とともに行った。

そこで、部屋の中で、お薬師さんが、風呂に入りたいという思いを抱きながら冷水シャワーを浴びている私を毎日見ていて、日本の、縁の在りそうな、風呂付の薬師堂に帰ってこれるようにしてくれたのに違いない。

と考えることも可能である。なにしろ、現に、お風呂のあるお薬師堂の堂守りになっているのだから。(お薬師さん自身が日本に帰りたかったのかもしれない)

それは単なる偶然で、私が帰りたがっていることを知った知人が薬師堂に住むことを許してくれた、ということに過ぎない、と考えることもできる。

私が護持していた薬師像は、単なる木像で、それ以上でもそれ以下でもない。このことには何のかかわりもない、と。

 

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件の薬師如来坐像

大きさは4寸5分ぐらいか。

 

どちらであろうか。私は、優柔不断でどちらとも決めかねている。決める必要はないようにも思っている。

 

というのも、何かの考えを持つことは、目的との兼ね合いの中で、意味を持つように思えるからだ。・・・お寺に住むからには、前者のように考えるのが素直であろう。

世間の中では、後者のように考える方が良いだろう。

そして、利害が衝突しないなら、どちらでもいいのではないか。

 

こういういい加減なところがないと、困ることが多い。

 

私は、考えて見ると、もう大方20年ほど、この坐像を護持してきた。因縁のある像なので捨てることは出来ない。しかし、狭心症と診断されたときに、この坐像を手放さなければならない時が迫っている、と感じた。そして、私の手を離れるなら、その前に、坐像を完成させなければならないなあ、と。そうでなければ他人には委ねられない。

 

この本体に台座と光背を付ける。そうすると、多分高さは2倍ぐらいになる。簡単に持ち運べる大きさではなくなるが。

 

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私は、寒い時に、本堂から仏像を持ち出して、それで焚火をした話などが好きであった。それでこそ役に立つ、と。

しかし、ある因縁で、この木像が私に委ねられた。捨てるわけにもゆかない。割って焚火にすることも出来なかった。

ただ趣味で彫ったというのではなく、願をかけて彫った。しかし願いも空しく、死んでしまったので、その願主が鑿を捨て、未完の仏像を私に託した。

私としては、手元に置いて、ときどき眺めていた・・・要らなくなった位牌などは「精ぬき」の経を読んで焼却するのだが・・・この仏像は、ボクのお経では精は抜けないかもしれないなあ・・・。しかし、台座を作って祭ることもしたくないなあ。

ということで、未完のままで20年が過ぎたのであった。

 

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今ボクも仏像を彫っているので、時々この坐像も手に取って眺めている。

そして、思い出に耽っていて、ペルーのことを思い出した。

6月に大統領選挙があって、そろそろ一か月になる。ケイコ・フジモリが4万票差で負けていたが・・・まだ結論は出ていない。選挙違反のチェックが済んでいないということらしいが・・・。大統領が決まるのは何時になるか。

票が真っ二つに割れて・・・