無題

三国志を読んでいて、読みながら考えることも、歳を取るにしたがって随分変わってきたなあ、と思う。これは、いろいろ読んで、知識が増えてきているということもあろうが、間違いなく歳をとったせいであろう。特に。わくわくしながら読むということが少なくなった来た。これは、無意識に心臓をかばって居てのことなのか。将棋も止めてしまったくらいだから・・・。

 

一時ボクの机の前の本箱に、100遍読むよりも一回写す方が身に着く、というような意味の言葉を張っていたことがあるが、それはそうだなあ、と思いながら、つい追われるようにして(残された時間が少ないという思いからだろう)、乱読の道に入ってしまうのである。何かを身に付けようという気持ちが希薄になってきたということもあるかもしれない。

 

単に、興味本位で読むのなら、今のままでいいようにも思う。ただ、50年ぶりに、2回目3回目の読書をしていて思うことは、1回目とはかなり見方が違うことも多いので、気に入ったものは、2度3度読むのは有意義(本人にとってそれなりの満足があろう)であろう。読書にどういうことを求めているかということとも深く繋がっていることであるとは思うが。

ボクは、リタイア生活に入るずっと前から、読書は大好きだったのだが、今は、そのころとは求めるものがずいぶん違ってきている。

どこかに、まだこのぐらいの内容のものは読める、という確認をしているようなところがある。つまりは、ボケ具合のチェックの意味もあるのかも知れない。

それならば、本当は、新しい知識を得るにはメモを取りながら読むべきなのかもしれないが・・・机に向かって長時間読むのはつらく、自然に寝っ転がって読む癖がついてしまっているので・・・。曖昧さを残したままの読書ということになっている。

 

坐りやすい椅子を買おうかと考えないわけではないのだが。

 

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今、ウクライナの様子を見ていて、大昔の、キューバ危機の頃のことを思い出している。家にはまだテレビはなく、ラジオと新聞だけであった。ボクは、そのころやっと新聞を読み始めた(読めるはずもないので眺めていただけであろう)ばかりであった。

核のボタンを押すかもしれない、という緊張が続いた。

毎日平和平和と身近な大人が言うのだが、その大人には何の力もないようだった。ボクはその何の力もない人々に教えられているのだという、絶望感のようなものを感じた。これはボクのその後に大きな影響を残した。虚無感というか。

今は、知識も増えていて、そんな感想は持たないが、今でも、まだ何にも知らない年ごろの子供にとっては、深い絶望感のようなものが刻印されるのであろうと思う。

ウクライナの、現に、父や先生が、戦っている姿を見ている子供たちはまた違っているのだろうが。