言葉にならない、モヤモヤしたものが、つかえている。
上手く表現できない。
どこか、うまい言葉をとっかかりにして、喋り出したいのだが・・・
・・・・。『戦争における「人殺し」の心理学』を読んで、
オレに人が殺せるか、という問いが生まれた時に、
おそらく殺せる。・・・みんなで渡れば怖くない、から。
という思いが浮かんだ。
ボクは、仏教徒であるけれども
キリスト教徒のように、人間と動物の間に差を設けないし、異教徒とキリスト教徒の間に大きな溝を設けるような考えも持たない。天国や地獄も無縁だ。
だから、切羽詰まって、生き物を殺さなければならなくなった時に、自分を納得させるために考えるとすれば、仲間(味方)と敵、という事だろう。
仲間と敵、というものの見方をする人たちならば、引き金を引くのは2割というようなことはあるだろうか。後でどんな後悔をすることになろうとも、少なくとも半数ぐらいは引き金を引いてしまうのではないだろうか。(注1)
ボクが『良心的兵役拒否の思想』を読んだのは、高校生の頃である。切っ掛けは、この本を書いたのが安倍知二さんだったから。そのころ、ボクは『白鯨』(岩波文庫 訳者は安倍知二)を読んで、分からないことだらけなので興味を持ち、メルヴィルの他の作品を読み漁っていて・・・(のちには聖書を読むようになり、仏教書を読むようになっていったのだが)。
何が分からないと言って、クエーカー教徒は人は殺さないというが、ただ教会のロウソクのために日本近海まで来てマッコウクジラを殺す。それも不倶戴天の敵のように。
その辺のことがどうしても分からなかったのであった。
戦争におけるプロパガンダ。言葉の果たす役割。
戦争だけではない、思想というもの。
たとえば、今『『日本」とは何か』(網野善彦 講談社学術文庫)を読み始めたところなのだが、最初の所に、「日本」などまだ姿を現していないころに、人間はどういう生き方をしていたかが、書かれている。そこには、まだ定住生活に入る前の、人のモノの見方のようなことが何となく想像される。
そういう人の営みは、「国家」に取り込まれることなく(定住生活に入れば「国家」に取り込まれて行くのだが、それは中国で遊牧民が中国に同化されていく様子…三国時代などに描かれているように…も似ている)、今でも続いているのではないか、と考えさせられる。
そこから見ると、大航海時代に、ペルーに日本人が居たということは、必ずしも奴隷として連れていかれたわけではなく(ボクはそう思い込んでいたのだが)、腕一本で生きていた日本人が、ペルーに新天地を求めた(結果はどうあれ)、とも見えてくる。
リマで、あるおばあさんから「あなたも、マッサージか何か出来ればいいのにね」と言われたことを思い出す。(マッサージ師の腕があれば、何処にでも出かけられただろうに・・・)
この項、全く纏まらなかった。まだ、言葉にならないモヤモヤが燻っている。あと何倍も言葉を紡がなければ、混沌に孔をあけることは出来ないようだ。
(注1)こういう、何処から見ても、弁護できない、弱い自分を知っているので、本当に、そういう立場に立たされないことを願うのである。
昔、〈歎異抄〉を読んだときに、そういうことを痛切に感じた。
これは、論旨不明確なのだが、最後に書いておかなくてはならないようである。