仏教用語である。
ボクが、仏教用語に触れるのは、本当に久しぶりである。じつは
この言葉が、ときどきチラつくようになってきている。
若い時には、葛藤の根源を断ち切る 意味の言葉の周りをウロウロした。
放下著も、そんな感じで理解していた。
アレキサンダー大王の一刀両断を、うらやましく思ったりした。
しかし、ある年齢になってからは、目の前の事態を処理していく中で
そういうことは重要性を失い、別々解脱 という言葉を大切にしてきた
別々解脱とは、『遺教経』という経典の中の言葉である。どちらかというと、
仏教のもっとも古い考え方で
その時その場で、やるべきことをやって、尾を引かない。
後悔したり、執着したりしない。忘れるというよりは、目前の次の事態に
集中してゆく(犬など見ていると、これの達人である)
後悔することは多かったのだが、第二の矢を放たない。
つまり、くよくよ、うじうじして、いつまでもそれに拘ることをしない。
ある意味、淡白に生きる心がけである。これに共鳴した。
決して誰にでも勧められる生き方ではない。
現代は、濃密に執着して生きていくのが推奨されているように見えるから。
・・・野生動物のような、行き当たりばったり ともいえるかもしれない。
そういう生活を長い間続けてきて、それが身に付いたかと言うと
それはどうだろうか
心臓を病んでから、老い先が短い と自覚しているからなのか、執着のようなものが感じられ、それが鼻に付くようになってきた。
もう一花咲かせたい、というような野心は最初から持っていないのだが
心の動きが、さらりさらり、とは行かないようなのだ。
何か、滞る。粘る。ような感じだ。次はないかもしれない・・・
・・・・・・・・
毎日歩かなければならない。腹筋○○回。読書○○時間。
確かに、やればやったで、それは爽快なのだが・・・
今の時期真昼間に散歩するのは、汗が自然に流れだして、拭いても拭いても、止まらない。それは実に気分いい。のだが・・・
心臓の調子は落ち着いていて、生き返ったような、活力を感じているのだろうか
それとも、そう思い込みたいのか
動機が不純なのだろうか。・・・・
まあ。考えるのは得意じゃない。
もう少し様子を見ようか・・・意識的に何かしないでも(してはならない)
二の矢を継がなければ・・・・
・・・ヒマがありすぎるのかも知れない。