食べたらすぐに眠くなり、我慢できずに、眠気に負けて寝てしまう。
これほど衰えの激しい肉体なのに、恋い焦がれる???
もう30年ぐらい前になるが、檀家に月命日か何かでお参りに行った折に、もうなかなか体が言うことを利かなくなってきて、日常生活に少なからず不便を感じるようになっていた、おばあさん(といっても今の私よりは若かった)が、お参りの後の雑談の折に、”体は歳をとるのに心は歳をとらない、どうしてなんでしょうねえ、”とポロリと感慨を漏らした。これが、その息子(長男)を失くして殺伐とした家の中の情景とともに、いまでも記憶に残っている。
ボクは想像力が発達していない方なので、その心底の内実についてはほとんど何も分からないのだが、意想外の言葉であった。その落差の ようなものが強く、これほど長い間、記憶に残っているのである。
ボクの様子も似たようなものかもしれない。明日の朝は目覚めないかもしれない、という日々の後に、こういうことになろうとは。身体はもう濡れ雑巾のように、芯を失っている。しかし、心は別物なのかもしれない。とは。
戸惑ってしまう。
ボクは60を過ぎたころ、もう女に迷うことはないだろうと、心の底でホッとしたところがあった。・・・。一度で充分だ。・・・。
命というのは、生き物だから、網の中でジッとしているものではない。踊り跳ねるものだ。あらためて、そう思う。
蛇を筒の中に入れておくのが修行ではない。
修行に、終りとか完成というのは無縁なのかもしれない。
女の夢も、2,3日なら楽しい。しかし、目が覚めたら、知人は誰も居なかったというのでは。
この世が全て、と思っていては、この問題に対処できないのではないか。
溺れるしかないのでは?
この心のときめきは、対処しなくていいのでは?
もう、芯のない濡れ雑巾なのだから。
人生というのをどういうものとして生き抜くか。
そういうことを言ってみたいということも分かるよ。
まあ。丑三つ時に、寝床の中で、薄ぼんやりと暗い天井を見上げながら、なかば眠気の中で
こういうことを思ったり。
そういう日もある。
追記;死ぬと覚悟していたのに、死に損なった。生きるところには再び生きる悩みが生まれるという事なのだろう。生き返って後、木耳だけを食べるしかなかったお坊さんの話を思い出す。