《 夢 》

夢にもいろいろあるが、ここでは、夢幻のような。人生は一つの夢、といったような感じの話をするつもりである。が、例によって、下書きも構想もなく、書き始めているので、どうなることか。

 

近頃、夕ご飯(4時から5時ごろ)を食べると直ぐに眠くなってしまい、ほとんど濡れ雑巾のように、姿勢を保っていられなくなって、横になって・・・寝てしまうことが多い。すると、真夜中に目が覚める。

 

そのまま起きるには早すぎて、寝床の中で、天井をぼんやりと眺めながら、時を過ごす。

 

そういう時に、「夢」という言葉が浮かんでくることが多い。

まさに、一炊の夢のように、短かったようにも振り返られる。

胡蝶の夢という言葉も浮かんでくる。

ボクの身体を借りて、何ものかが楽しい夢を見たがっている・・・

まもなく、夢もない世界のなかに消えてゆくのだろうか

それとも、それも亦誰かの見ている夢の中で、あれこれ思っているのだろうか

 

一昔前の人は、過去世と現世と未来世があると思っていた。過去世の続きとして

現世があり、現世の続きとして未来世がある。

尻尾に噛みついた蛇のように繋がったこのあり様からは永遠に逃れられない。

業に業が積み重なって、終に、この業の重みには耐えられない。

だから、そこから脱却する道を探さなければならない、と。

 

現世の楽しみに現を抜かしていると、お地蔵様に縋っても、この業の車輪からは永遠に逃れられない、と。

 

ところが、ある時から、過去世も未来世も架空のもの、フェイクであると考えられるようになり、たかだか100年未満の時間が与えられた全てというようになった。

《夢》が現となり、現が《夢》となったのである。

これは、一言で言えば、弱肉強食の世界である。

 

しかし、本当にそうなのだろうか。

 

夢の中で夢を説き、夢の中で現という夢を語っているだけではないのか

 

ボクは彼女に恋い焦がれている

本当だろうか

燃え尽きようとする命が、何か縋るものを欲した

そこに彼女が現れた。

 

数年前、苦痛の無間地獄をさ迷っていた時、ボクは

たまたま様子を見に来た看護士さんを観音菩薩と勘違いして

苦痛から脱した。

痛みだけの無間地獄から脱することが出来たのだった。

 

これは意識は対象を欲する、と言うだけのことではないのか。

 

無目的の、生命の意思ではないのか。それは、夢を食う。

 

(途中だが、こんかいはここまで)