『放てば手にみてり』

ソクラテスを読んでいて、頭の中に、この言葉が浮かび、消えない。

どういうことだろうか。全然関係ないと思うのだが・・・

 

この言葉は、道元禅師の書かれた『弁道話』の最初の方にある。しかし、ボクはもうそういうことは忘れてしまったので、頭の中に浮かんだ言葉は、それとは無関係であろう。そして同時に、あるお坊さんの説教を思い出した。「お風呂の中で、湯を手前に引き寄せようとすると、みんな逃げて行ってしまう。逆に、湯を外に逃がしてやると、皆寄ってくる。欲ばっちゃあ駄目だよ。お布施しないと。」というようなことを言っていたが、これもちがうなあ。これは「手にみてり」を重く見ているのだが・・・

ぼくがこの言葉で思うのは、握りしめている手を開け、ということである。握りしめるのを止めれば・・・ということ。「てにみてり」ではなく、「放てば」の方に重心をかけて、見る。まず「手を放せ!」

手に満ちるかどうかは兎も角、握っているのを手放してみようよ、ということである。

 

しかし、なぜ、この言葉が、浮かんだのだろうか。

 

まあ。単に、ぼくは哲学向きではない、ということかもしれない。それは確かにそうであるが・・・。

 

気付くと、握っている。何かを握ろうとする。今のがダメなら別のモノを・・・

いけないなあ。

間もなく12月である。今年は、少し坐ろうと思う。今年も、かな。

 

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ギリシャ哲学者列伝(上)』簡単には頭に入ってこないので、2度読んでいるところもある。どんな詰まらないことでも何か書くにはもう少し時間が掛かる。

『哲学の誕生 ソクラテスとは何者か』(ちくま学芸文庫)も、読み始めた。

 

この二冊は、一般書とは言えないのではないかと思うが・・・