「物と春をなす」とは?

【「完全な知恵とはどういうものかな」

孔子は答えた。「人間の境遇は千差万別で、あるいは生まれ、あるいは死に、あるいは存え、あるいは亡び、逆境に叩きのめされるかとみれば、順境に時めき、貧乏にのたうつかと見れば豊かな金と物とに恵まれる。またあるいは賢く、あるいは愚かに、あるいは世間に罵倒せられ、あるいは世の称賛を受け、食に飢えるかと見れば、水にのどが渇き、寒さに震えるかと見れば暑さに喘ぎ苦しむものでありますが、これらは何れも「事の変、命の行」(万象の絶えざる変化、運命の流転の相)にほかなりません。そして、この刻々止むことのない一切万象の変化、運命の流転の相は、夜となく昼となく我々の眼前に入れかわり立ちかわり現れて尽きることがなく、人間の認識能力では、とうていその根本原因を突き止めることのできないものでありますが、この完全な知恵の持ち主は、形象概念を超えて、流動変化する実在そのものと一体となるから、万象の変化と流転も彼の心の安らかさを乱すことはできず、彼の精神は、あらゆる変化と流転の相を高く外に超えて、その変化と流転そのもののなかに調和と歓喜を見出し、何ものにもこだわることなく、常に生の愉悦にみちあふれ、昼夜の間断なく、生々流転する一切万物とうららかな春のごとき調和を楽しんでゆく(物と春をなす)のであります。一切万物とまじわりながら、生々流転する時間の世界そのものを自己の中に創造してゆく存在、このようなあり方を完全なる知恵とよぶのです。」】

朝日新聞社刊「中国古典選 荘子 内篇」p214.215

 

ちょっと表現が固いのですが、私の手元にある三種類の翻訳(岩波文庫、中公クラシックス朝日新聞社中国古典選)のなかでは、一番分かりやすいような気がします。

 

私なりのあいまいな言い方をすると、自分が対象と距離を取ってあれこれ考えながら接するのではなく、役者がその役になりきるような形で、配役を楽しむ。

人生を芝居のように楽しんで、自分の役を演ずる。自分で自分を演じる役だから、慣れれば、距離はなくなる。和やかな親密な役である。

私たちは、ともすれば他人の役を演じたがる。ない物ねだりをしやすいと思います。それで、不満や愚痴が出る。自分が自分の役を演じるのは楽で、親しい。動物はたいてい見事に演じているのに、人間だけが演技が下手のように見えます。

あるいはそれが人間らしく、下手なのが名演なのかもしれませんが。

 

 

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今日は寒の入りだが、春のような暖かな日の予想である。

散歩の足を延ばして、白鳥を見に行こうかな

昨日おろし立ての靴を履いて散歩に出たら靴擦れが出来てしまった。

今日は履きなれた古い靴で出かけようと思う。