「心を用うるは鏡の如し」

【「至人の心のはたらきは、ちょうど鏡のようなものである。去ってゆくものは去っていくままにし、来るものは来るままにまかせる。すべて形に応じて、その姿を映し、しかもこれを引きとめることがない。だからこそ、あらゆる物に応じながら、しかも自分の身を傷つけることがないのである。」】

中公クラシックス荘子1』p201

 

このすぐ後に、有名な「混沌に穴を穿つ」話が続く。それが『内篇』の最後の話です。

 

お釈迦さまは、煩悩・迷いは、愛・執着から起こる、と言われた。なかなか鏡のようなわけにはいきません。

昔は、言葉を固定する文字も知らず、写真もなく、覚えておくことが難しかったが、今は記録することは容易で、忘れることが難しい。

まあ。時代が変わり、考え方も変わってきた。この話も、今の人はどう思うのか。

 

昔の人のほうが愛するものを覚えておこうとする執着は、今よりもはるかに強かったようにも思う。何しろ写真もない、手紙もないのだから。記憶がすべてといってもいい。

今の人は手紙があり写真があるので、瞼の裏に焼き付けて覚えておこうという執着心は希薄になっているかもしれない。

 

『内篇』を読み終えたところである、これから『ローマ帝国衰亡史』に戻ろうと考えています。

 

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蠟梅の写真を三枚ほど。さきほど(午後2時ごろ)写したものです。

散歩していると、西日の中るところに咲いている蠟梅はもう満開である。うちの蠟梅はどちらかというと朝日が中るところにある(そろそろ日陰に入る)ので、花はこれからです。