雑感

ボクたちは、「原因があって結果がある」という考え方に慣れている。だから、イスラエル紛争でも、ウクライナ戦争でも、能登半島地震でも、原因は何か、と考える。

それは間違っていないだろう。しかし、当事者にとっては、突然降りかかる『天災』と『人災』の区別もつかない、「災難」であろう。

(災難の当事者として)それに対して、如何対処するか。その時には、「原因があって結果がある」という思考法だけでは間に合わない。(多分、災害の被害者や縁者・救護に当たる行政側・報道する者・観客などさまざまな立場の者がおり、一概に括れない)

 

孔子の徒』や『墨子の徒』の言っていることは正論なのかも知れないが、各論、各論というよりは「今・此処」の、右往左往している者の、緊急の役には立たない。

「いま・ここ」では、事態を正面から受け入れて、そこに積極的に対処することが、大事である。

荘子』の時代は、現代日本とは随分違っていた。「戦乱の世」では、情報も乏しく(一部の人に独占されていた)、ほとんどの事が原因・結果で判断することが難しく、天災も人災も区別なく災難であったろう(天災といっていい)。

荘子のような考え方が、広く求められていたように思う。

だから、『荘子』が書かれた戦国時代以降、ずっと、荘子はベストセラーであったにちがいない。

 

荘子』は今は、もう用なしか。と言えば、そうではない。というのも、誰もが、統計の数字ではない「生きた人間である」

今・此処でオレはどうするか。縛るものは何もない。そこでは、統計に縛られて動くのも自由だし、無視するのも自由だ。

自由だとは言いながらも、親も先生も、友達も、まあ、大体、誰もが無難な、原因・結果の文脈で、話をする。

そうでない話はなかなか聞けない。

自分が自分に話すときは必ずしも、論理的ではないが、人に話すときには、それなりに論理的な話をする。・・・

 

そこにいくと、古典、『荘子』などは、まだ情報網が発達していない、しかし原因・結果で論理を操る人々がそろそろ力を持ち始めた時代に書かれているので、

思考の原点に触れるようなところがあり、なかなか面白い。いろんなことを考えさせられる。

 

ボクは『荘子 内篇第二 斉物論篇』など、とくに面白いと思うのだが、書き写すとなると長い、そして他人の文章を写すときは、確か自分の書く文章全体の3割を越えてはならないとかという制約がある。そういう制約があるので、ボクの文章は沢山の人に読まれているわけではないけれど、だからと言って、それを無視する理由にもならないので、躊躇している。

 

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ローマ帝国衰亡史』は少しづつ読み進んではいるが、それほど続けてブログに書きたい話題ではない(雑感を書くような話題ではない)ので、『荘子』を取り上げようかと考えている。荘子も雑感を書くような本ではないかもしれないが・・・

 

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「仏壇」のまえに飾った蝋梅は満開になったようだが、外の蝋梅は三分咲きぐらいだろうか。樹の下には、小鳥のついばんだ名残りの花弁が沢山落ちている、これが付いていれば五分咲きぐらいなのかもしれない。まもなく蝋梅より、白梅の時節であろうか。かなり陽ざしが力強くなってきている。