【罔両(影のまわりにできる薄い影)が影にむかって問いかけた。「君はさきほどは歩いていたのに今はたちどまり、さきほどは坐っていたのに今は立っている。何とまあ定まった節操のないことだね。」影は答えた。「ボクは(自分の意思でそうしているのではなくて、)頼るところ(人間の肉体)に従ってそうしているらしいね。ところがボクの頼る人間はまた別に頼るところに従ってそうしているらしいね。ボクはヘビの皮やセミの抜け殻のような儚いものを頼りにしていることになるのだろうか。さて、なぜそうなのか分からないし、なぜそうでないかも分からないね。」】
『荘子』第一冊p88
「荘子」では、このあと、有名な「夢で蝶になる」話がつづくが、今はそれは置いておいて。
『荘子』第四冊を読んでいたら、やはり罔両の話が出てきた。そこに、この章と同旨の文は第一冊にもある、と書かれてあり、こちらの方が短いので、写すには容易なので、それを採用した。
この文章を読むたびに、私は『形影神』を思い出す。「形影神」は写すには長すぎるのでここにはその「序」を示す。
陶淵明に「形影神」という詩がある。
その序に、次のようなことが書かれてある、【自分が世間の人を見てみるに身分の貴きものも、賎しきものも、賢き人も愚かな人も終始こせこせとして命を惜しがらぬものはない、だれを見ても長生きしたがっておる、自分の考えでは是はおおまちがいである、因って先ず形と影とがこせついて苦しんでいることを述べ次に神が自然ということを弁別し形影二者の過ちを釈いてやることを申し述べる、もし世間に物好きのお方があるならば、この詩を読みて作者の心もちを酌みとってもらいたい。】
『陶淵明詩解』 p87
この序文を読むと、荘子と陶淵明では、発想が全然違うように見えるのだが・・・ボクにはとても似ているように思える。
荘周と陶淵明は、似ていない。荘周は、分からないものは分からないままに、というところがあるが、陶淵明には、何としても秩序付けたいと思いながら、苦しんでいるようなところがある。
影は激しく動く。しかし、罔両は、あまり変化しない。しかし、変化しないものがいいとも言えない。五十歩百歩という言葉が思い出されるところである。影のあるところ必ず罔両もあるのだから。
影は人に近いところがあり、その影響が強い、が罔両にはそういうところは感じられない。
こういういい加減なところで、目の前に投げ出されるのは、陶淵明は嫌いだったろうなあ、と感じるのだが・・・。
どうして、似ていると感じてしまうのか・・・。
・・・・・
心臓。胸の圧迫感が強まると、だいたい脈が跳ぶ。これが随分頻発している。あまりいい気分ではない。止まってしまうほどではないかもしれないが、随分無理をしているなあ、申し訳ない、という思いである。70年以上も黙々と働いてきて、ここに来て、また強い負荷をかけてしまったなあ、と。