『荘子』雑篇 第二十四 徐無鬼篇 より

【智謀の士は、思慮をはたらかせる必要があるような変わった事件がないと楽しまないし、弁舌の士は、議論をよぶきっかけになることがないと楽しまないものだ。また他人のあらさがしをして明察をほこる人物は、かさにかかって相手をののしるような事件がないと楽しまないものだ。これらは、いずれも外物にとらわれて自主性を失った人間である。

世間の人望を集めようとつとめる人物は朝廷に勢力をもつようになり、民衆の人気をあてた人物は官吏として栄達する。筋肉の力をもとでにする人物は危難がおこると得意になるし、勇敢をうりものにする人物は患難がおこると元気になる。武装した軍人は戦争がおこるのを楽しみにし、やせさらばえて枯れ木のようになった隠遁者は名声に身の宿りを求め、法律家は政治のおよぶ範囲をひろげようとし、礼楽の教えを説くものは顔つきや物腰をもったいぶり、仁義の道を説くものは人との交際を重くみる。

農夫は野良の仕事がなければ和楽することができないし、商人は町中の取引がなければ和楽することができない。庶民は朝夕の仕事があれば精を出し、職人は仕事の道具があれば張り切るものだ。財貨をため込まなければ貪欲な人間は心をいためるし、羽振りがよくないと権勢欲の強い人間は悲しむものだ。

このように権勢や物欲にとらわれた連中は、変事が起こることを楽しみにし、機会にめぐりあって能力を発揮できるとなると、無為のままにはいられないものだ。すべてこれらの連中は、たとえば夏の虫が夏の季節だけ生きるように、一年のうちの一季節だけに順応して生きるものであり、その状況を変えれば人間としての存在を失うものだ。その身心をかけめぐらせ、これを外界の事物のうちに埋没させてしまい、終生その本来の場所に帰ることがない。悲しむべきことではないか。】p56,57

 

この部分は、多くの人には、何言っているのか分からない、のではないか。当然のことの、何処が問題なのか?これでいいやないか!

荘子は、一年のうちの夏だけ生きている蝉のような生き方だという。

もったいない。宝の山の中で、宝探しをしている人のような・・・