『荘子』外篇  崔瞿が老子にたずねた。

外篇 第十一 在宥篇より

【「天下を治めるという人為がなくては、人の心をよくすることができないのではありませんか」

すると、老子は答えた。「お前は人の心を乱すようなまねを慎むがよい。人の心は、おさえつければ下にさがり、おだてれば上にあがるもので、上下しているうちに身をとらえて殺すものだ。人の心というものは、それがしなやかであるときは、剛強なものを柔らげる力をもっているが、いったんこれに角をつけたり削ったりして細工を加えるようなことをすると、もえる火のように熱くなったり、いてついた氷のようになったりして、手におえないものとなる。その動きの速さは、またたくうちに世界のまわりを二周もするほどである。静止しているときは、深い淵のように静かであるが、いったん動き出したとなると、はるかな天空にも登るほどだ。このように奔放自在で、つなぎとめておけないのが、人間の心というものである」】p50

 

岸田さんは、善意で動いているのでしょうが、人は思うようには動いてくれない。

そこには《空気》のような、得体のしれないものが、働いているようにも見える。

翻弄されて、会期を終えることになるのか。

決定したいことをしっかり持っているのか。

アメリカの方からも風は吹いてくるし・・・

これだけ揺れていると、柳に風とは行かないような。

 

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久しぶりに『荘子』を読み始めたのだが、今回が初めてのような気がしている。

いままで何度も手に取っているが、ゆっくり読むのは、ほんとうに久しぶりである。

いや。初めてなのではないだろうか。

部分的に読んだという記憶がある。高校生までさかのぼるが、全体を通して読んだことはないのかもしれない。今回も全部に目を通すことができるかどうか

 

正直のところ、よくわからないところが多い。というより、ほとんど分からないといったほうがいいかもしれない。大昔の人の書いたものなので、それでもいいと思うようなところが自分の中にある。

 

原文の漢字をどう読むかというところで、専門家の話を鵜吞みにするしかないわけだから。(ここで、専門家はそうとう苦労しているらしいことが伝わってくるが、)こうして、現代語訳を書き写していても、もやもやしたものが残る。

 

手元にある三種類の訳の中では、福永光司さんのものが一番わかりやすいのだが、現代語訳を書き写すのは一番難しい。自分で作文しなければならないところが出てくると感じることが多い。

それで、優等生のような森三樹三郎さんのものを使わせてもらっているのだが、ときどきは金谷治さんのもののほうが、フィーリングが合うような気がする。

他にも訳はいくつか出ているので、そちらにもっと相性のいいものがあるかもしれないが・・・(以前、諸橋轍次さんのものを読んだことがあるが、いまは手元にない。)

 

ここで、ほんの少しだけ、今日のところのさわりを、写してみると、

福永さんは、【そなたはくれぐれも用心して、人民の心をかき乱すことのないようにするがよい。人間の心というものはだよ、抑えつければ卑屈になり、もちあげればつけあがり、卑屈になりつけあがる情念の奔騰と頽落の中で、生命を病み衰えさせる厄介なしろものなのだ。云々】

金谷さんは【お前、めったに人の心をしばりつけてはならないよ。人の心は抑えつければ沈み、おだてればたかぶって、たかぶったり沈んだりしながら、やつれ衰えていくものだ。云々】

 

 

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今回も『ローマ帝国衰亡史』は中断することになるかもしれない。

・・・・『文明と戦争』も中断してしまったのだが。その前は『平家物語』を中断している。

ちかごろ、中断してしまうことが多いような気がしている。