『老子』(朝日文庫)

久しぶりに目を通した。

よく知っている言葉がたくさんある。玄之又玄。和其光 同其塵。天地不仁、聖人不仁。上善如水。抱一。大道廃有仁義。などなど。

それは『荘子』より多いかもしれない。

 

でも、ボクはどうしたわけか、老子はあまり好きになれない。

人間臭すぎるということなのかもしれない。

 

道や聖人というのは、もっと、人間の匂いのしない

例えば毘盧遮那仏のような、存在であってほしい。というところが

ボクにはあるようだ。

毘盧遮那仏はとても人間臭いのだが、でも生身の人間ではない。

それは、荘子の描く聖人に近いような。

ということで、『荘子』を読むことが多かった。

 

今回朝日文庫の『老子』を読んで、

荘子との共通点がとても多いことを教えられた。

この本はずいぶん以前に手に入れていたのだが、全部読んだことはないのかもしれない。

 

ボクは、政治に無関心な荘子が好きなのかもしれない。たぶんお金にも無縁だろう。

老子は、どうもちゃっかり蓄財していそうな雰囲気を持っている。

 

古本を購入した人のコメントに、今はこういう本は流行らないかもしれない、とあったが、たしかに。

流行るかどうかはどうでもいい事だが、流行らないと本屋で出会うことも少ないだろう。

ボクは、最初の出会いは、高校の漢文であった。

漢文の先生の雰囲気が、他の先生とは全く異なり、仙人のような、のんびりした感じであった(たぶん受験とあまり関係がないから)。そこに惹かれた。

 

そして、図書館から漢文関係の図書を借りるようになったのだが、伝統のある高校の図書館なのだが、ボクがどうやら最初かそれに近い閲覧者らしいことを知り、それもうれしかった。(他の分野の本も似たようなことだったかもしれない。図書館で本を借りる人はあまりいなかったように記憶する)

もう50年前から、流行っていなかったように思う。さらに、その数十年前から。

 

この前、「石平」さんのYouTubeを見ていたら、習近平さんのことに関連して、「中国では国家のこととかはあまり関心がない。」「一族が安泰ならいい。」「食えるうちは反抗しない。」というようなことを話していた。遠い昔からの、老子の影響なのであろうか。

 

余談

この対話は、お酒を飲みながらであったが、日本人へのサーヴィスなのかどうか、お互いを三国志の誰に似ているか、という話題になった。相手は魯粛、石平さんは鳳雛先生、ということになっていた。鳳雛先生はボクに中では、もっと性格がキツイ人なのだが、中国人の見るのはまたもっと別の資料があるのかも知れない。

なかなか面白い対談であった。