『ヨーロッパ中世』

数年前、ギボン『ローマ帝国衰亡史』に挑戦したことがある。あのとき、半分ぐらい(第7巻)で状況が理解できなくなり、読むのを諦めたのであった。

それで、もう少し易しい教科書を、ということで、世界の歴史9『ヨーロッパ中世』の古本を購入した。・・・それも、途中で投げてしまった。

 

そうであった。徐々に思い出した。

 

今回、この時代を読もうと挑戦するのが何度目になるのか、分からないが、『ヴィティコー』を読んでいていくつか疑問がわいたので、あらためて『ヨーロッパ中世』を読み始めた。

今回は、最後まで行けるかもしれない。まだ自信はないが。

 

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今日は、久しぶりに雨が降り、急激に気温が下がった。多分25℃ぐらいまで。

ちょっと一息つけたような。

散歩の足も軽かった。雑草も萎れかけていたのが息を吹き返したようである。

 

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昨日夜訪ねてきた彼(孫弟子)のことを考えた。

彼は、私のところに電話して、繋がらないので、12回もかけた。そのとき、私の携帯の電池は切れているらしいことを知り、携帯を充電しなくなって少なくとも3日ぐらい経過している、それは、私が意識を失くしてからそのぐらい経っているということだろう、と考えたのであろう・・・

しかし、一人で来たということは、あくまでもその可能性が大きいということで、理由は分からないが、電話機が手元にない可能性もある・・・そのほかの可能性もあるかもしれない・・・

大げさにしないで、一人で行ってみよう、ということで出かけてきたのであろう。

 

・・・・まあ、気持ち悪かっただろうなあ

 

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わたしの携帯(スマホ)は、もう7年ぐらい使っている(数えきれないぐらい落したことがある、そのたびに蓋が開いてしまったり)ので、調子が良くないときもある。半分寝ぼけているような・・・

ま、この前買ったスマホSIMカードが合わなかったので今はクロスワードで遊んでいる(すぐ言葉を忘れてしまうので、これはいい刺激になる)だけなのだが、近日中にこれにあったSIMカードを手に入れて、電話も安心して使えるようにしておかなければならないかもしれない。

 

彼は、この半月の間に3件のお葬式があった、と話していた。私の経験から言うと、それは半年分である。・・・年寄りには、今年の暑さは厳しすぎたということでもあろう・・・だから、(年寄りの)私の身にも、何かあったのかもしれないと考えたのかもしれない。

 

いろいろ、他人の気持ちとか、こまごましたことを考える、引退した独り身にとってはめんどうくさいことだが、自分が関係することだから、無理しても、あれこれ考えておかなくてはならない。

 

 

 

ヒトと話したくないので電話のスイッチを

切っておいたら・・・(ちょうど電池もなくなりかけていたし、まず電話がかかってくることもないし・・・)

 

何かあった時には後を頼むと言ってある、私の孫弟子が、夕方やってきた。

 

お寺の事で聞きたいことがあるから、というのでしばらく話していたのだが、どうもあまり緊急性のある話ではない・・・

 

帰り際に、実は・・・ということで次のようなことを話した。

コロナのこともあるし、ここ数日厳しい暑さのこともあるし、電話してみたら、電話が繋がらないので、何かあったに違いない!ということで、とんできた。

・・・入り口のドアを開けたら、ハエが飛び回っていたらどうしよう・・・と恐る恐る開けた、と。

 

・・・絶句だ。申し訳ないことをした。

それほど心配してくれていたとは・・・

 

18才の頃、仕事を止めてしばらくして、手元のお金が乏しくなり、家に電話した。私の言いたいことは言ったので、電話を切ったのだが、父は何か言い足りなかったらしく(私は詳しい話はしたくなかった)・・・途中で電話を切られたということで、心配になったらしく・・・あの頃私は鎌倉に住んでいたのだが、翌日昼過ぎに、父が訪ねてきた。幸い部屋にいたけれども・・・

お金を送ってもらうつもりでいたのだが、わざわざ仕事を休んで様子を見る序でに届けてくれた・・・

 

ま。親というのは!! 親がどんなものか、身に染みた記憶である。

 

今回、それとは少し違うが・・・一日電話を切っていただけで、こういうことが起こるのだなあ。反省した。

ここ一か月ぐらい、電話一本メール一通なかったのになあ

 

追記;携帯のスイッチを入れたら・・・昨日の朝から12回電話の記録が残っていた

 

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今日の暑さは格別でした。紫外線が強かった。

スマホで写真を撮ったのですが、これをパソコンに取り込むことが出来ません。やり方が分からないのです。なかなかいい感じに撮れたのですが、ま、仕方ないですね。そのうち、誰かに教えてもらいます)

 

 

稲刈りが始まりました

風はそうとう強い。いろんなものが宙を舞い、目にゴミが入りそう。

でも、二つ続けて来るとなると、無理しても刈ってしまうということであろうか。

例年9月に入ってすぐに刈るところではある。

 

散歩していて、気温は高そうだが、汗はあまり気にならない。

昨日左ひざに力が入らなくなり心配したが、今日はペースを落とし距離を短くしたこともあり、何事もなく散歩を終えた。

多分明日は散歩はお休みとなるだろう。

 

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雨が降りそうなのは嬉しい。もうカラカラ天気が何日続いているのか・・・たしか一回だけ夕立があったが・・・いつもの事だが、草がずいぶん枯れた。山にも、紅葉が(枯れ葉か)目立つ。

 

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読書は、まだ新しい本に取り掛かっていない。ヨーロッパ中世について書かれた本を読んでみようか、と思っている。・・・いままで何冊も目を通しているのだが、すぐに忘れてしまうようだ。

わたしの記憶にある中世東ヨーロッパは、かなり貧しい。しかし、『ヴィティコー』では、金銀がふんだんにあり、絹の服装も普通のように描かれている・・・

 

 

 

昨日書いた

「虚無の浸潤」という言葉だが、こんな言葉は自分でも使い慣れていない。ただ、イメージがピッタリのように感じたのである。

何回か読んだことのある「ソクラテスの死」

彼は、毒ニンジンから作られた毒薬を飲んで死ぬわけだが、書かれてある記述によると、直ぐに死ぬわけではない。足先から冷たくなり感覚がマヒして、それが徐々に上の方に上ってくる。心臓が停止するまで数時間かかるらしい。その間、しずかに横になって、会話を続けることも出来たようである。

このイメージである。静かにしずかに、浸されて行く・・・

 

ソクラテスのばあいは、あの世を信じていたのかどうか分からないが、イデアの世界を信じていたらしいから、多分。

ただ、今の時代の人たちは、否応なく、ダーウィンの信者になるように教育されているので、あの世とかを信じるのは、信じたい気持ちはあっても、原則不可能であろう。使っている言葉やしきたりの中に、過去の考え方が深く入り込んでいるので、何とも言えないけれど。

 

この世で手に入れたものをすべて失う。ま、そういうことである。

しずかに・・・虚無に浸されていくような・・・

虚無がしずかに入り込んできているような・・・

大げさに言えば、ブラックホールに飲み込まれるような・・・か?・・・これはちがうね。そんな大げさなことではない。

 

 

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台風が過ぎれは、気温は急速に下がるのだろうか・・・などと私などは他人ごとのように考えるのだが、いま、梨農家の方は、祈るような気持ちであろう。

これからの一週間が、あるいはしばらくが、収穫の時期である。

いま風が吹くのが一番困る。

幸い9号は逸れるようだが、つづけて10号が・・・

 

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思うままに

今回に限らないのだが、その作品について考えると同時に、いろんなことを漠然と思う。まあ、当たり前の事だろう

ただ、だんだん、違ってきているかな、と感じることもある。

たとえは、昨日までは知っていると思ったことが、実は知らなかったというか、浅かったというか、まだ、井戸の中をよく覗いていなかったのではないか、というような、そういう感じがし始めている。

もう少し具体的に書くと、もうあまり本も読めなくなるかもしれないな、そうなったら、何をすることになるのだろうか、と。

本を読めなくなるということでは、白内障が進んで読みにくくなる、というようなことを考えていたのだが、そうではない。書かれている内容に、あまり興味が持てなくなる、かもしれない、ということだ。

無理にでも、この世に関心を縛り付ける工夫をしないと、どうでもいいような、寂しい感じが、し始めたというか・・・

虚無が浸潤してくる、というのは、こんな感じかもしれないな、と。

 

若い人たちの多くが、こんどの新型コロナ騒ぎで、鬱に近いところに追い込まれている、という話を聞く。カラ元気を出している人も多いだろうが、やっと大学生活を始めたと思ったら、学校に行かないで自宅でインターネットで学習、というのでは・・・パソコンとスマホで外界と繋がるだけのような、世界が縮小したような憂鬱な日々であろう。

 

老人でも、カラ元気を出して、死ぬまで現役と突っ張る人も居るだろうが、淡々と年相応のあれこれを感受しようとすると、突っぱねない限り、虚無の浸潤というのは避けがたいのではないか。

神様なり何なりを握り、寄りかかることが出来れば、幸いかも知れないが・・・現代人には、大半の人にはそれは出来ないだろうから、たった一人で立つ、ということになる。

じたばたしないで、そこでじっとしている、というのは、今までの、社会の中で支えあってお互いが互恵関係の中で生きてきた、というのとは、だいぶ様相が違う・・・

 

禅坊主の語録の中には、そういうところで漏らされる感想が結構あると思うのだが、というのも、彼らは彼らではない、原則ひとりだから。そういうのを、読んできても、それは、自分の境涯が違うところでは、つい読み違えてしまう・・・

 

いま、「つぶやき」が流行る時代だが、呟く傍から、虚空に消えてしまうような、そういうつぶやきは、禅坊主の専売のようにして、かろうじて留められている。

そういう見方で、シュティフターの作品を眺めてみると・・・というより、そういう見方しか出来なくなってくると、それは相当強い色眼鏡を掛けることと同じだろう。

 

ま。そんな、こんな、ことを思うのである。

 

 

『ヴィティコー』 4

読みました。暑すぎて、なかなか進みませんでしたね

 

最後は、神聖ローマ皇帝とともに、ミラノを攻め、屈服させ・・・ヴィティコーは功を立て更に領土を広げる。子供も成長し、城を建てることになった、というところで幕。

 

このような誠実で力のある者の元には、善意の人が集まって、理想的な集落が形成される・・・のだろうか。そうあってほしいような・・・そうであってはならないような・・・そんなはずはないような・・・。

 

ともあれ、中世の森の中で、ヒトの動きが激しくなり、新しい時代が始まったことを感じさせる。司教が地域全体を破門にしたり、その司教が身の危険を感じて逃亡したり、神を恐れぬ人々が蠢き始めている・・・自由都市ミラノもそうとう力をつけてきている・・・経済活動が活発になり始めているということである。

主人公は参加していないが、十字軍時代(1096~1291)の真っ最中、第二回十字軍(1147~49)が重なっている。

日本は、保元・平治の乱のころである。

 

・・・他人事としてよむと、デズニィー映画のようでもあるし、子供向けの本のようでもあるが・・・一番近いのは、宗教書であろうか。宗教を学んだものは、こんな感じでモノを見、行動すべきである、という・・・

だから、誠実に書かれているのだが・・・読み物としては退屈でもある。全三冊1000ページを優に超える。なかなか読んでもらえないかもしれないね。

 

・・・読み通して見て、捨てがたい、味わいのあるのある本なのだが。

 

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今日も暑くなりそうです。夜が涼しくなってきているので、嬉しいです

そうそう、ツバメが南へ去りましたね。・・・ただ、例年9月中頃になるとまた、何処からともなくツバメがやってきて、10月初旬まで、飛び回るのですが。ずっと北の方からやってくるのでしょうか・・・それとも・・・

 

 

『ヴィティコー』  3

第三巻の三分の一ぐらい。主人公が領主となり、城を築き妻を迎える、ことになった。

 

これは、19世紀のカオス状態にNOといった作者が、カオスを回避するようにして生まれたキリスト教的社会(秩序ある社会)を 未来に(も)見ていたということなのだろうか

 

ボクには、こういう社会は、時の中で、内部から腐ってくる、ように見えるのだが・・・それを防ぐには、強権の発動しかないだろう・・・

人間は天使ではないから・・・天使の真似はいつまでも続けられない・・・

 

原理主義的思考には、どうも信用できないところがある・・・と。

 

・・・ま、ともかく最後まで読もう。

 

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暑い日が続く。昨夜は、夜中に目を覚まし(暑かったせいかそれとも地震のせいか、今朝ラジオ体操の時に地震があったことを教えられた)、エアコンをつけた。ほんの短時間つけて、直ぐに切るつもりでいたのだが、そのまま朝まで寝込んでしまった。

鼻がぐずぐずする程度ですんだが、危ない危ない。

 

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『ヴィティコー』は、ファンタジーなのだろうか。ディズニー映画を見ているような気になるのは確かだ。当時映画は知られていなかったのだが、作者が画家でもあるので、きわめて視覚的な描写が多いからだろう。

作者は歴史を書いているつもりでいたようだが、それは心理描写などを一切排除するという意味なのではないか。

目に見、言葉で示せるものにのみ、価値を見ている。

それが、神の意志の表れだからだろうか(神が想定されているだけで歴史ではないと考えるのは、われわれずっと後の、ダーウィン以後の人間だからだろうか)

 

エゴを認めないなら、エゴを悪と見るなら、世界はある意味単純でもあろう・・・

 

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ほんの少し動いただけで汗が滲む、これは、普段運動不足だからだろうか

誰もそうなんだろうか