『碧巌録』

第97に《金剛経軽賤こんごうきょうきょうせん》という話がある。

 

碧巌録へきがんろくというのは、主に臨済宗公案こうあんとして、あるいは漢詩文として、よく読まれている本だが、いまでは一般人にも理解しやすいように注記された本(岩波文庫)が出回っているので、公案(問題集)とは切り離されて、一般教養書としても読まれている。

とはいっても、分かりやすくかみ砕いて書かれているわけではないので、「これは一体何を言っているのか」あれこれ考えさせられる。あれこれ考えるのが好きな人向きの本かもしれない。

 

大体問答が多いのだが、いろいろな役者が登場して、一場の寸劇を演じる。それをあれこれ批評している体裁である。といえよう。

全部で100話。この97話は問答ではないが、なかなか面白い話である。風無きに波騒ぐという感じであろうか。

金剛経」の中に、もし人に軽賤はずかしめられたなら、この人には、前の世で作った罪業があって、本当ならば悪道に堕ちるべきところを、今の世で他人に軽賤はずかしめられることで、前の罪業が消滅する。と書かれてある。(だから、そのように受け止めて忍受しなさい)

 

この話の大本は、多分お釈迦さまの弟子になった、99人を殺した外道の「アングリマーラ」に教えた言葉であろうと思うが、この話は様々な影響を方々に与えている。日本でも、五条の橋の上で99本の刀を集めた弁慶の話をはじめ・・・。

でも、凝り固まった思いで悪業を積む話ばかりで、その消滅を聞くことは少ないように思う。これは、前の世とか、罪業というのが、捉えにくいからであろう。・・・・因果の理法をよく理解出来ないためであろうか・・・さて、理解したとしても、無我というのなら、その罪業を受ける私も無いわけだから・・・・一体誰がその罪業を受けるのですか。・・・・そもそも前世の私が、今の私に生まれ変わったとするならば、無我というのは奇怪おかしくはないですか。云々

 

私も、面白いから取り上げているのだが、その面白さを読む人に伝える力はなさそうなので、詳しくは書けないのだが。

 

心というのは、モノほど単純ではないようで・・・・しかし、別の意味からは、ものすごく単純でもある。凝り固まってモノのように働くこともあり、解けて水のように流れてしまうこともある。そういう対象として捉えにくい心の問題をあっちからこっちから問題にしている、と言えば、少しは分かりやすいだろうか。

 

少し長くなりました。