キワ刀で真っすぐな溝を彫る練習を続けながら、地紋を彫るための下絵を書こうとしている。
地紋彫り。これが、渡されたコピーではよく分からないので・・・図書館から『彫刻刀で作る仏像』という本を借りてきて、読み始めた。
なかなか難しそうだ。
綺麗に彫るのは勿論だが、狙いは、《刀の使い方を習得する》ことである。
キワ刀というのは、切り出しナイフの小さなものであるが、これが一番よく使う刀のようである。これの、持ち方・刃の入れ方・削り方などを覚える。
花菱文様を彫れるようになれば、他の道具は応用問題のようなものだと。
しかし、身体は思うように動かないものだということを、亦、改めて、思う。
身体を使うあらゆることで、同じことだろうが・・・。
直線の溝を彫る。一度に深く彫るのではなく、何回も削っていき、深くする。
そのとき、左手の親指の位置(支点)、右手の位置、刀の角度などなど、さらに、左手で押すのではなく、親指の先を梃子の支点にして、右手をてこのように動かして、小さな力で削れるように・・・
・・・しかし、左手で押してしまい(すこし高い位置に指をあて)、右は方向を決めるだけになってしまいやすいのだ。
これは、・・・鉛筆削りのばあい、そんなに力は要らないので、だいたい左で押して、右手は単にナイフを支えるだけで、削っていた。その癖がついているのである。
同じ要領とは言うが、微妙に違う。
次回までに花菱文様の下絵を描き上げて、講座に臨もうと考えている。
以下『仏像彫刻のすすめ』からコピーした写真です
・・・・・・・・
『中国文学における孤独感』を読んで、改めて、世界をどう見て、それと自分をどう関連付けているか、というようなことを、考えているのだが、ボクはそういうことを、極めてあいまいにしている、ということに気づく。
言葉を大切にして使ってゆく人は、特に詩人などは、そういうところは、きわめて厳格なのだ。ということを、この本は教えてくれる。
(当たり前のことで、わたしが無知であったというだけかもしれない。文章を書き始めた時、分かりにくいと屡々指摘されたことを思い出す。それが、いつの間にか、何も言われなくなったのだが、それは私が分かりやすく書くようになったからではなく、言ってくれる人が居なくなったということなのかもしれないなあ、などと思うのである。)