読書の目的・効用

ダーウィンやグールドの本を、内容の一部は相当古くなっていたり、現在は否定されてしまっている考えも多いのだろうなあ、などと考えながら読んでいるのだが、

それをボクは面白く読んでいる。

 

新しい知識を得たいという気持ちが失せたわけではないのだが、

ボクのような一般読者に、専門用語もあるけれども、使用を極力抑えて、その当時の問題などを、分かりやすく伝えてくれている。それが今ではずいぶん否定されてしまっていたりして、興味深い。

 

歴史は一回限りで、繰り返すことはない。

直線的時間を想定してみると、歴史は繰り返すと思うところもあるのだが、今ここに立って此処だけをみていると、すべては、新鮮である。間違いなどは気にならない。

 

定説からは、過去は批判で来るのかも知れないが、その時々の模索の中では、それとはかなり違った風景が見られる。

 

進化論が正しいかどうかはボクには分からない。そういう方向で見ることは無くなってきている(今の動きについていけなくなっているという事でもあろう)。

ただ、キリスト教的な(といってもボクにはその一部でも見えているのかどうか覚束ないのだが)見方とは全く異質な見方を提示したのは確かだろう。

 

進化論的見方の肝は、単なる変異ではなく、淘汰、自然淘汰と性淘汰ということであろうと思うが、この考え方によって、地球の年齢が、数千年から数十億年に伸びたし、キリスト教の軛を離れることによって、地球そのものが変化を繰り返してきているという見方が出てきた。

 

今の時代の束縛とは何なのだろうか。進化論そのものが、束縛する側の道具になってきているのだろうか。

 

まあ。ほとんどタダで、あれこれ考えて、暇つぶしが出来ることが、効用の最たるものであろうか。