宗教

今、『インドと中近東』を読んでいて、宗教について考えると言うほど大げさなことではなく、心に浮かぶままに、あれこれと思う。

ボクが学んだ中で、いちばん考えさせられたのは、《般若(智慧)》という事でした。

般若の知恵というのは、握らないこと、思想を握らないで、活発に生きて働いているところで、さらりさらり、と働いて、滞らないこと。

正しいことを握ると、別の正しいことを握ったものと、必ず対立し、争いになる。それはよくないと考える。

 

今は、正しいことを握る時代かもしれません。というより、今に始まったことではなく、ずっと昔から、そうなのかもしれません。

争いの中から、工夫が生まれ、新しい芽が育ってくる。

 

握ると言えば、般若の知恵もまた、握らないということを握っている、と言えなくもないかもしれません。

 

豚は食べない。牛は殺さない。そういう教えを守っている人に、豚と牛の脂を舐めさせるというのは、傲慢も甚だしいと感じさせられる。

 

毎朝散歩の途中で、お寺の前を通る。その時、六地蔵に手を合わせるのが日課なのだが、手を合わせると、一日が明るい気持ちで送れる.という人は少なくない。

六地蔵は大抵のお寺の山門の近くにある。(お寺の近くではないところにもあるかもしれない。)その六地蔵のいわれを知って、有難がっているというのとは違う。

多分、どんなところでも、地獄の底でも、助けてくれるというより、助けるという願をかけているお地蔵さんに手を合わせる。

 

そんなの迷信だ。ボンさんが自分の似姿を有難く見せているだけだ。一体助けるってどういう事??

 

そうかもしれない。そうでないかもしれない。(助けるということでいえば、手を合わせてホッとした時助けられている。)

 

しかし、小便をひっかけて、陰で笑うというのは如何なのだろうか。

お地蔵さんは、小便ぐらいで動じないだろうけれども。小便の縁で、いつか助けて貰うのかも知れない。

 

宗教というのは、教義が先にある場合もあろうが、自分の中の何かが

先にある場合もある・・・

 

気付いたら共鳴していたというような場合もある・・・

 

いずれにしても、困った時の拠り所のようなものである。

それを、他人に貶されるのは面白いことではない。

バラモンイスラム学者も同じように搾取したのかも知れないが、心の奥に土足で踏み込んだりはしなかった。

 

宗教というのは、教義を信じるというのとは違う。

 

この項纏まらなかったが残しておく。