暑さが凌ぎやすくなる時節という事であろうか
昨晩、微かな虫の鳴き声を聞いた。今朝力強い声を聴く。
都会のど真ん中は知らず、此処では、しばらく前から、すこし空気が変わってきていたのを感じていたが、虫が鳴くようになったのだなあ
「大東亜戦争肯定論」第九章 ホーマー・リー氏の日米必戦論 に入る。この章は、この本の一つのピークのように思う。日露戦争直後のアメリカの空気が変わった様子が主題のようだ。中断している「日本の禍機」と符節を合わせる。
涼しくなってきたのは有難い。
昨日。すこし遠くに出かける気になって、『五浦美術館』に出かけた。
随分空いていた。美術館を見学し、そこから歩いて、六角堂の方に足を延ばした。
車では2分ぐらいらしいが、歩いては、10分ぐらいか。車の通れない裏道(多分昔はこちらが使われていた?)。(車を降りて美術館を見学し、六角堂を見て帰ってきて車に乗るまでに、3キロ近く歩いたかな)
日陰はずいぶん涼しい。
別に大東亜戦争肯定論を読んでいるので、五浦美術館に行く気になったわけではないのだが・・・
「九鬼周造随筆集」などを読んで、天心にはあまり好い印象は無いのだけれども
まあ。茨城に帰って、一度は行ってみたい所ではあった。
追記;今回、現代史に関連して、いろんな本や話を聞いていて、さまざまな解釈の元になった事実は、本当に一つなのだろうか?? と考えさせられた。
事実そのものか、想定されたものではないのか。
想像して探すと、それらしい事実が出てくる。創造される・・・
伊藤貫さんは、3つのレベルの話をしていた。哲学・思想のレベル。国家戦略のレベル。当面の戦術のレベル。
それぞれで、モノの見え方は決定的に異なる。ということは、事実そのものが違うという事ではないのか。
全部に通底する事実というのは、仮想されているだけではないのか
この仮想する、ということが、極めて人間らしい働きで、
万華鏡のような世界が広がる根源なのではないか。
それを、どうにかするというより、楽しむしかないのでは???!!
探すという楽しみ。観るという楽しみ。眺めるという楽しみ・・・毘盧遮那仏というのはそういう先に仮想された仏さまか
だから、いまここで働く力が弱まってしまった・・・
真実は一つ。必ずあるはず。そういう確信から、形而上学や科学やが展開するのだろう。毘盧遮那の世界とは対極というべきか