一度、2021年2月に読み始めた。第一部を読み終えたところで、ヘレン・ミアーズ女史の『アメリカの鏡・日本』(角川ソフィア文庫)に移って、ここには戻ってこなかった。
だから2年半ぶりである。YouTubeで、西鋭夫(トシオ)さんをよく見かける(記事そのものを見てはいないのだが)ので、途中で投げてしまったことを思い出したのである。
この本は、三部構成で、
第一部 誇りの埋葬
第二部 戦後の悲劇「平和教育」
第三部 終わらぬ「戦後」の始まり
今回、第三部から読み始めようと考えている。
正直あまり読みたい本ではない。辛すぎる。
・・・ヘレン・ミアーズ女史はそうとう優秀な人であったが、この本『鏡』は、マッカーサーによって発禁にされただけではなく、翻訳も禁止された(p265)。米国内ではほとんど注目されなかっただけではなく、彼女自身が埋もれてしまったようであった。多くの人の聞きたくないことを言うと、どれほどの正論でも、無視されたり、禁圧される。売れなければ商品価値は低い。
西さんのこの本は相当注目されたが、それでも、あまり読まれてはいない。のではないか。
ボクは『独ソ戦』も辛くて途中で投げてしまったのだが、70を越えてから、というか、病気をしてから(江戸時代だったらこのとき死んでいる、と思うようになってから)読むことが辛いのには耐えられなくなってきている・・・
だから、今回も最後まで行けるかどうかは微妙である。
・・・・ボクも戦後教育を受けたせいだろうが、傭兵を雇って国を守ってもらう、ルネサンスころのイタリア商業都市の行き方が必ずしも悪いとは思えないところがある。核大国ではない国の在り方として、やむを得ないかな、と。
しかし、核廃絶を唱えながら核の傘に守られている、というのは、納得できない。矛盾していると思う。そういう二枚舌はマネしないほうがいいような。
ただ、独立国ではなく、独立国のふりをしている植民地政府であるならば、そういうこともあるだろう、と。
自分に決定権がないなら、矛盾は必然だろう。
植民地政府という事では、エリートの証が英語を操れること、というのも、その証明かも知れない。
・・・・・・
今日は旧暦8月15日十五夜である。子どもの時何人かで、夜忍んで人の家に行ってお供えの一部を持ち帰ったことを思い出す(そういう風習だったのだろう)