その辺の石ころ

70余年も生きてると、自分はその辺の石ころのような(ちっともめずらしくない、ありふれた)存在だということに、完全に納得する。と同時に、石ころの方が凄いのではないか、とも思う。

 

確か3年ほど前。砂浜の、砂を取ってきては、ルーペで覗いていたことがあった。磁石に付く、鉄分を含んだ小石を眺めたり。その辺の砕石を覗いたり。

昆虫の死骸を見たり・・・

そのうち飽きてしまったのだが・・・。

 

今回、片づけをしていて、当時集めた標本が出てきて、また興味を覚えた。

全て、身近な、その辺の石ころなのだが、信じられないほど、複雑である。

 

当時集めた石の一つ

父が若い時に使った、『鉱物見本60種』、もう80年以上も前のものだから、番号が乱れてどれがどれだかボクにはよく分からない物が多いのだが、これまたルーペで覗くと、どれも複雑である。方解石とか雲母とかは比較的単純のようだが。

 

地球が内部の熱によって対流をしはじめてどれぐらいになるのか分からないが、まあ、溶けては固まり溶けては固まり、こね回され続けて、これほど複雑になったものなのであろう。

 

ぼくなど、何処にでもいる、ありふれた老人なのだが、やはり、この手に取っている石と同様、生命が長い年月を経て、組み替えられてできているもので、きわめて、複雑なのであろう。

 

複雑という事と、ありふれているという事は、両立している。

 

ありふれた石の中から、宝を掘り出す人が居る。それに価値を見出す人が居る。それはそれでいい。壊す人も居る。それは良いとは言いにくいが、それもアリだ。

 

何でもありの世界の中で、ではお前はどう生きるのか?お前らしく生きたらいい。お前らしくなく生きてもいい。感動を与える生き方もいい。総すかんの生き方もいい。それしかできないなら、そういう事である。

その辺に転がっている石ころみたいな生き方でもいい。それも、目を凝らしてみれば、ずいぶん複雑である。目を凝らしてという事は、自分を振り返ればというようなことかもしれない。

 

読み返して、何が書きたかったのかよく分からない。たぶんよく分からないが、心内に蟠っているもやもやしたもののことを書きたかったのだろう。自己否定の気持ちが高じて、おそらく、単に自分を肯定したいのかも。