『後悔する犬、嘘をつくニワトリ』 読みました

ボクは、ゴウンを見ながら、よく思ったものである。

もし、ボクがイヌになったら、如何するのだろうか。このゴウンのように行動するのだろうか。・・・

 

ボクは、それよりも大分以前に『家畜人ヤフー』という小説を手に取ったことがある、といっても、30ページほど読んで、ショックを受けて、読むのを止めてしまったのであったが。・・・あれはM文学だったのかも知れないが、今の目では、植民地日本の立場を自虐的に表現していたのかも知れないとも思う。しかし、途中で投げてしまったので、何とも言えない。

 

なぜ、こういう話を出すかと言うと、ゴウンは結局ボクに媚びて尻尾を振るようになってしまった、ボクがそのようにしてしまった。そして、イヌの立場だと、少しの程度の差はあれ、そういうふうになってしまうのだろうか、というようなことを考えたのであった。

その反省から、少しづつボクのゴウンに対する考えは変わっていったのではあるが・・・

 

そんなことを思い出していると、さらに以前の事が思い出された・・・

四国お遍路をしていた時、あれは高知県愛媛県を歩いていた時である。9月初めごろであった。右にカーブするのぼりの小道を登っている時、右の坂上から左の方へと数えきれないほどの、4~5センチの毛虫が道路上を移動していた。ちょっと足の踏み場がないほどで、毛虫を踏まないように下を見ながら歩いていたのだが、そのとき、ボクの横を軽トラが通り過ぎた。

ボクはそのとき悲鳴を聞いたような気がした。

それは軽トラが横滑りする時に立てた音なのかもしれない。あるいはブレーキを踏む音か・・・

目をあげると、そこには踏みつぶされた無数の毛虫が見えた。赤が混じっているのは血であろうか。動いているのも居る

何か、自分が踏みつぶされたような気がした。

当時のボクには、この毛虫の命と自分とどちらが重いか、分からなかった。

自分が可愛いに決まっているのだが、自分から放してみれば、どちらも同じ重さではないか、というような考えに捉われていた。

 

修行途中で、お遍路に出たというのも、いろんな問題が全く片付かないで積み重なっていくだけで、だんだん重さに耐えられなくなっていたからである。悟りを開いで、一刀両断にするか、問題そのものが雲散霧消してくれれば有難いのだが・・・

 

一刀両断というのは決して問題の解決ではなく、新たな問題を生み出すだけかもしれないとは、そのころ何となく感じていた。道元の一刀一断という言葉は知っていたが、それが何を意味するのかは全く分からなかった。

 

そういうことを思い出した。

これは戦後植民地下の平等・平和教育の弊害なのかもしれない、とも思うが、そういうことは全く本人には分からないことである。

 

本人は、自分の問題をとにかく解決しようとするだけである。

ボクがゴウンを見る目と、ゴウンがボクを見る目は、おそらく全然違うのである。

ゴウンは真剣にボクに向かってきていたので、卑屈でもなんでもなかった。

 

『後悔するイヌ、嘘をつくニワトリ』を読み終わっての感想としては、ずいぶん外れていると思うが・・・・