『法の原理』ホッブス著 10/27 少しだけ追加

2年ぶりぐらいで、また手に取っている。

 

【すなわち聖書が神の生ける言葉であることを、わたしたちはどのようにして知ることが出来るのでしょうか。(中略)

したがいまして、聖書は神の言葉であるという私たちの知識は、ただただ信仰なのであります。といいますのは、自然的理性とか超自然的な啓示によって明らかにされるものは信仰とは呼べないからであります。(中略)

聖書が神の言葉であるということを認める者は、明証性からではなく信仰によってである・・・】p119~120

 

人の知恵については、これは何処から見つけた言葉か忘れたが、最近メモした言葉

 

【神は人を正しい者に造られたが

人はさまざまな策略を探し求めたのだ】

 

という言葉がある。考えさせられる。

 

旧約聖書の中に「コヘレト」という短い書がある。

なかなか含蓄が深いというか、いろいろに読める面白い書で、私は「華厳の教え」に似ているなと感じたことがあったことを思い出した。

あれは、2015年、ペルー・リマでファナ校長先生から『聖書』を頂いて、それを毎日読んでいたときであった。全体で3200p余り、厚さは7㎝ほど。ずっしりと重い。

 

カトリック版の聖書

 

いま開いてみると、

「日の下で起こることの中でいちばん悪いことは

すべての人に同じ運命が降りかかることである。」

というところに、線が引いてある。(私が引いた)

すべての人にというのは、善人にも悪人にも、ということである。

平等が一番悪いことと書かれてある?

 

「コヘレト書」の最初はこうである。

 

コヘレトは言う 空の空 空の空 一切は空。日の下でどのように労苦しても、

それが人に何の益になろう。

 

ちょっとびっくりするような書き出しである。

 

ボクに聖書を語る資格があるとは思わないので、語らない。

ただこういう言葉が、神の信仰とどう繋がってゆくのか、という疑問が起こり、ついつい最後まで読んでしまう。

そして神の信仰を持たないと、如何いうことになるのか、と考える。

 

『神のいない世界の歩き方』途中で投げてしまっているのだが、

この世の混乱は神が居ないことによって起こっているのだろうか。神が多すぎて起こっているのだろうか。策略を巡らして、道具として使うことから起こっているのだろうか。信仰を忘れたところに起こっているのか・・・

 

ボクは昔からあまり変わっていないのではないかと思う。

ただ、ヒトはちっとも強くならないが、武器はとてつもなく強力になり数も増え、通信手段は発達し、それ・争いの現場がお茶の間で目の前に見せられる、こういうことは変わったところだろう。

 

コヘレトはこういうことも言っている。

 

かつてあったことは、いずれまたある。

かつてなされたことは、いずれまたなされる。

日の下には新しいものは一つもない。

 

話が『法の原理』とあまり関係のない方向に流れてしまった。

法の原理の中で、主権者や主人・奴隷などについて考えているところを読んでいて、「解放奴隷」というのが今の日本の立場にかなり近いかな、と思わされる。

解放された奴隷は、自由ではない。鎖につながれていはいないのだが、主人には絶対に反抗しない、ということで、鎖を免れているのである。