こちらが面白くて、ついついこちらを先に読んでしまう。
斯波さんは六朝文学がご専門だったようで、陶淵明の詩注も出しているようです。
詩の中に表現されている孤独感ですから、すこし違うといえば違うかもしれない。ただ、だんだん時代が下るにしたがって、表現も、現代のわれわれに近づいてくるように感じる。
李白の孤独感が、一番最後に取り上げられているのだが、一番身近かもしれない。自信過剰で他を見下し、孤独。浴びるほど酒を飲む。
その前には杜甫。彼も自信に満ち溢れていたのだが、世に受け入れられず、志を伸ばすことができない。孤独ではあるが、その孤独は、他の孤独を思いやる気持ちを深くしている。
その前が陶淵明。陶淵明は、若い時には意気天を衝くような志を持っていたが、時代に合わない自分を見つめて、みずから一人歩むことを選んだ。酒は好きだが貧乏で思うほど飲むことができない。死ぬまで、浴びるほど飲みたいという気持ちを持っていた。
これでは簡単すぎる要約だが・・・
陸游は確か85歳まで生きている。老いの孤独を読んだ詩があるだろうか。とにかくたくさん読んだらしいからあるとは思うが、岩波文庫の『陸游詩選』には選ばれていない。若い時に別れさせられた女を思い出す詩を、60代か70代かそのころ詠んでいるが、これも孤独感の中に入れてもいいかもしれない。
でも、こういうモノまで数えると、限りなく増えそうである。
陶淵明や杜甫・李白の孤独感というのが、酒でも飲まないとやってられないという気がする。酒を忘憂のものと言うそうだが、そうなのであろう。
竹林の七賢も、かなり孤独感を抱え、酒や薬を飲んだようだが・・・斯波さんに選ばれるほどの詩を残さなかったものか。
孤独感と無縁の生き物など存在しないだろう。でないと、お釈迦様のなくなる時に考え付くほどの生き物が涙を流しているような図は生まれないような気がする。