坐る時間はそんなに長くはない。もう、そういう無理は出来ない。
ただ、朝、午前中、午後、夜、少しづつ坐るわけなので、本を読んだりする気分にはならない、ドラマを見ようという気にもならない。
一言で言えば、連続する思考がぶつぶつに断ち切られるわけである。
いま、ここでの、身体所作の方に、自然に気持ちが向く。
そういう中で、普段思い出さないようなことが、ふと思い出される。
だいたいは、すぐに忘れてしまうのだが、拾い上げたくなるようなことを
思い出すことも有る。
ある日、突然、自分の顔が変化してしまう。カフカの作品ではないが・・・。あるいは、夏目漱石の体験ではないが・・・。
夏目漱石の体験に近いかもしれない。
彼のどの作品にあったのだか忘れてしまったが、路を歩いていてショーウィンドウに写った貧弱なサルのような姿が、自分だと気づいて愕然とする、という事が書かれてあった。
ボクの場合は、図書館の帯出カードを作る必要から、写真を撮ってもらった。その写真を見て、愕然とした。そこには、中国系の貧相な老人が写っていて、それが自分だとはとても信じられない。それで、鏡の前に立って自分を見つめたら、そこには、写真そっくりな顔が写っている。まったく見たことがない顔である。
顔をしかめたり撫でたりして見ると、鏡の中の顔も同じ動作をする。
確かに自分である。・・・仮面をかぶっているのだろうか。
あらためて、顔を撫でてみる。
これが、オレの顔なのだ。まったく他人の目で見た時の、オレなのだ。
いままでの自分の目ではない。全くの他人の目。
どうしてそういうことが起こったのかは分からない。しかし、現にそういう事が起こっているのである。
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しばらくあれこれ考えていて、ある時、ある実験の事を思い出した。
すべてのものが逆立ちして見える度数の強いメガネを掛けて生活するとどうなるかという実験。確か2か月か3か月過ぎたころ、突然、すべてのモノが正常に見えるようになった、という事であった。
ボクも、ペルーに渡って、3か月ぐらいが経過していた。ほとんど日本人には遭わない生活をしていたので、目がペルー人を正常とし、ボクを異人と認定してしまったのであろう。
自分が自分と思えない。何度見ても、見知らぬ他人である。仮面をつけているようである。これは、衝撃であった。
いまは、沢山の人が長期にわたって外国に滞在する。別に珍しいことではないのかも知れない。しかし、本人にとっては、やはり、衝撃であろうと思う。
ただ、ボクが全身麻酔から醒めた時のような経験は、あるにはあるが一般的ではないようなので、こういう経験も一般的ではない可能性もあるかもしれない。
一般かどうかはともかく、しばらくは、出来るだけ鏡を見るように心がけて生活したことを覚えている。(何時正常に戻ったか、覚えていないが、十日ぐらいだろうか???とにかく毎日鏡を見ているうちに自分であることに慣れていった)
・・・・・・
こんな昔の全く忘れていたことを思い出すなんて・・・こういうことは、坐禅中に思い出すわけではない。坐禅はしていない、寝床の中とかでふと思い出す。
これは、普段とは少し違う、また、集中した生活の中でもない、
たまたま連続した思考をぶつ切りにしたところに生まれたのかも知れない。
初めて坐禅体験をするとき起こることに似ているのかも知れない。ボクも坐るのは久しぶりだから。
しかし、理屈から言えば、こういう体験は、日本国内で、身近なところで、起こってもおかしくはないはずだ。だって、他人の中で他人を見て生活しているのだから。
そう思い返してみると、確かに、自分の顔が見慣れない顔だと思われた時があった。しかし、衝撃を受ける程の違和感のある体験ではなかった。・・・
・・・イヌなんか、鏡を見たら衝撃を受ける可能性は大きい。受け止められないほどの衝撃で、じっさい受け止められないかもしれない。なんて・・・
この項おわり。