坐禅していると

手も足も口も、いわば、閉じた状態になる。目も、キョロキョロしないように、半眼。呼吸も、静か(かすか)でゆっくり。最初は、(閉じ込められたようで)驚いて、頭の中は、フル回転で騒ぎまわるが、やがて、空騒ぎも落ち着き・・・

すると、高いところから、全体を見渡すような、ことになる。

 

いま。イスラエルで戦争が起こっている。ウクライナで戦争が起こっている。たくさんの人が死んでいる。人だけではない、多くの生き物が巻き添えを食って死んでいっている。死んだら、どうなるのだろうか。

三途の川を渡るのだろうか。しかし、あまりにも多い。三途の川でおぼれて流されてゆくのではないのか。

流されて、どこに行くのだろうか。海であろう。海はすべてを受け入れる。

そのあとはどうなるのだろうか。

海で撹拌されて、

おそらくは、もう一度、生き物になって生まれてくるのであろう。

また生まれるその原因は、死んだときの強い思いだといわれている。それが核となる。この場合は、恨みだろうか、あきらめだろうか、怒りだろうか、悲しみだろうか。

 

そうすると、つぎの生もまた、似たような、争いの中の生になるのではないだろうか。

この輪から、どうしたら抜け出せるのだろうか。

抜け出すのは難しいだろう。

生のありようを高いところから見渡すことのできないなら、抜け出す道を見出すことも難しい。

生をこの世だけのものと思っている限り、高いところに立つということが先ず出来ない。

 

(この項、途中だが、公開。何時か手直ししよう)