昔のことを思い出すことが多いのだが、書くのは憚られる。というのも、
思い出したことを書こうとすると、嘘が混じるような気がする。本人は、嘘を言いたいわけではないのだが、自然に混じる。その嘘は大体自己正当化の匂いがする。
理由を考えてみるに、思い出すのはごく一部で、他はぼんやりした靄の中、ということで、そのボンヤリしたところは、勝手に都合のいい想像で埋められていくのではないか、というのが一つ。なぜ、そう思うかと言うと、他の記憶との整合性が怪しいと思う時があるからである。
そのことから推察するに、その思い出した記憶というのが、そもそも、どうも既に、自分に都合のいいものに変化しているのではないか、ということである。これは、どうして確かめられるのか、わからないけれども。
そんなこんなで、断片的にはいろいろ思い出すのだが、書くとなると、想像を交えることになるだろうし、果たしてそれで整合性が取れるだろうかと心配になる。ほら話に整合性は難しいだろうから。
どうも、自分に都合のいいように、記憶されていくようなのである。そうでなければ、自己嫌悪に陥ったことも多いわけだから、今こうして平気な顔をして生きてはいられない、ともいえる。だから、決して悪いことではないのであろうと思うのだが。
自分の感想を交えようとすると、このブログはそういうものとして書いているのだが、一瞬、立ち止まってしまうことがある。・・・更に嘘を重ねるの?と。
『仮の自分』を立てて、話を展開したい、というのもよくわかる。しかし、それでは、結局、寝床の中で、夜中の一時ごろに目覚めてしまった時に、ラジオでも聞くしかないことになりはしないか。
肩のあたりや足先辺りに寒さを感じながら、遠くの高速道路のもの音とか、救急車のサイレンなどを聞いて、じっとしていることは出来ないのではないか。
これからさらに寒くなる数時間を、眠れないまま、寝床の中で、丸くなっている。
そこで、ラジオを聞いたり、スマホを取り出したりしては、いけないのではないか。
耳をすませるのではなく、五感を開放して眠ろうとするのだが、寒くて眠れない。
ここを胡麻化さない。
何のために???それがどうだというの?
・・・・・・
何かのために生きてきたような気がする。でも、もうそれはいい。何かのために生きなくてもいい。それは卒業。ではどうするの?
それでも、生きている。生きなくてはならない。
ただ、生きているということに、淡々とした、喜びが感じられるように、と願う。
息をしている。寒さに震えている。そのことに。
(これも、自己正当化の匂いがするけれど・・・)