『人間の由来』(チャールズ・ダーウィン)

1年前に読んで、もう読むことはないだろうとおもいながらも、本箱の片隅に立てかけておいた。それを、今回、手に取っている。

 

前回とは少し違った(といっても、もう前回のことはうろ覚えではある)動機である。

今回は、ダーウィンの観察に、注目している。

 

【人間の知的進歩にとって、「注意力」にまさる重要な能力はほとんどないだろう。ネコが穴の入り口を見張って獲物に襲いかかろうとしているときのように、動物にもこの能力はあきらかに存在する。野生動物がこういう状態にあるときには、あまりにも気をとられているので、容易に近づくことができるくらいだ。サル類でこの能力にどれほど変異があるかについて、バートレット氏は私に興味深い証拠を提供してくれた。サルに芸を仕込んでいる男が、いつもふつうのサルを一頭5ポンドで動物学協会から購入していた。しかし、彼は、三、四頭のサルを数日間手元に置いておき、その中から一頭を選んでよいなら、二倍の値段を払うと申し出た。どのサルがよく芸を習うようになるか、そんなに短い期間で知ることができるのかと問われると、彼は、それはすべて注意力によるのだと答えた。彼がサルに話しかけたり説明したりしているとき、壁にとまっているハエなどのつまらないものでサルの注意が簡単にそがれるようなら、そのサルに望みはない。注意力のないサルに罰を与えて芸を仕込もうとすると、彼らは不機嫌になってしまう。一方、彼によく注意を向けるサルは、常によく訓練されるというのだ。】

『人間の由来 上』p64,65

 

なかなか面白い。3,4頭に1頭ぐらいの割合で、訓練のし甲斐のあるサルに出会える。

人間も似たような気がする。勿論、そのものの値打ちはそれだけではない(かけがえがない)のだが、ある目的のために訓練するとなると、そういうことで、それはサルも人間も、似たような比率かも知れないなあ

 

こういう記述とか、少し前の【(あのりっぱな観察家であるp・ユーベルが、)アリたちがたがいに追いかけっこをしたり、咬むまねをしたりしているのを記しているように、昆虫でさえ仔犬のように遊ぶのである。】p59

 

を読むと、彼は、生き物はすべて感情を持っていると考えていたのではないかと思われる。

ボクなどは、かれのそういうところには大いに共感する。

後代の科学者の記述にはみられない、共感できるところである。