『女と文明』 など

梅棹忠夫さんの本はずいぶん久しぶりです。何冊も読みましたが、最初は『文明の生態史観』でした。いかにも科学者らしい、視界の開けるお話でした。

今回、どういう事が書いてあるのか、まだよくわかりませんが、文そのものは小学生低学年でも読める。漢字を出来るだけへらして、ひらがなばかりの文章。もう何十年も前に書かれた文章なのですが、ちっとも古くない。こんなに漢字の数を減らしても問題ないのだなあ、とあらためて、感心しました。

 

勿論扱う対象によっては、こういうわけには行かないでしょう・・・ボクは漢字が好きなので、ちょっと物足りないような、頼りないような気はしますが・・・

 

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新しい中古車。どうやら追突警告(30キロ時速以下で作動)とか、バックしている時警告音が鳴る(多分車高が高い分だけ低い位置は見にくい)とか、セットすれば高速道路で一定なスピードで走れる、とか。10年ほど前に「高級車」についていた装置(友人の車に乗せてもらったとき教えてもらった)が付いている。

・・・あれから10年、もっといろいろな安全装置が開発され、それが軽にも付くようになっているのだろう。それが、値段を高くしているということもあろう。

 

今回私が手に入れたのは、その前の段階の物のようだ。・・・車のことを頼んでいる人に、追突してしまったこと、長時間運転は疲れるようになっていること、電気系統のトラブル(5年前)は、もう対応が難しそうだということ、などを(以前から頼んでいるので全部事情は知っている筈です)話して、探してもらったのでした。一番はお金のことでしたが、予算内で何とかしてもらった。因みに、今まで中古で乗った車は殆どがグレードが高いものだったが、今回は一番低いようだ(削れるところは削って値段をギリギリまで下げて作られている)。

2、3日うちに、車中泊をしてみるつもりである。マットと寝袋・毛布を積み込んで。

3時間ほども仮眠ができれば、昼出発して、午前中到着が可能だ。そうすると、高速が夜間料金となり3割ほど安くなるはずである。

車中泊ということでは、イヌが寂しがるので、家内がイヌ2匹とホテルの駐車場で車中泊した、昔のことを思い出す。ボクには運転があるから、休んでもらわなければ困る、と。イヌ2匹を連れての里帰りは、2日がかりだった・・・。

子ども連れだと、もっともっと大変なんだろうなあ

 

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昨日、ほんとに久しぶりで、近くの店で、日替わり定食を頂いた。金曜のお昼時に、食事は3組、計5名。以前は、混むのでこの時間帯は外していたのだが・・・。

今までなんとか頑張ってこられたのだ。また客が戻るといいのだが・・・。

 

・・・私のようなものでも、外に出始めた・・・

 

 

トランプさんには、何とか元気で戻ってきてほしいですね。

 

 

 

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読書の好時節

何冊か借りてきたり、購入したりして、手元にあるのだが・・・ゆっくりゆっくり。

それぞれの一冊が、長い時間の勉強の成果というのが多いのだから。

今読んでいるのは『19世紀ロシアの作家と社会』(これはずいぶん前に手に入れて、途中で投げていたものである。いま、19世紀の歴史を読んでいるので、思い出して引っ張り出した)新しく読み始めたのが『女と文明』梅棹先生の若い時の作品らしいが、復刻されたのは最近のようだ。読もうとしているのが『國破れてマッカーサー』これは少し分厚い。分厚いだけでなく、中身も重いかもしれない。

すべて中公文庫である。そうそう、『幸田露伴集』も忘れてはならない。

 

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やはり、ツバメは去ったようだ。今日は一羽も見ていない、温かく、いい天気だった。

15夜の頃、ススキを飾ったことを思い出した。ススキが随分目立つようになってきている。

国勢調査、郵送しようと思っていたのだが、地区の係り員が回収に来られた。ご苦労さんです。

 

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今日、新しい車(中古だが)が、届いた。小さな疵が随分沢山あるが、養生はしてある。今まで乗っていた車よりかなり(10年ほども)新しく、キーレス・アイドリングストップなど、初めての事も多い。慣れるまでに少し時間が掛かりそうであるが・・・たぶん、これが私の乗る最後の車になる。

大事にしよう。ある檀家さんが、車を大事にする人は事故を起こさない、と言っていた。この人は長い間駐在さんをやっていた方である。まあ、いろんな人を見てきてそう感じていたのだろう。私もそう思う。

 

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『明治大正見聞史』

1926年に最初の版が出ている。1926年というのは、昭和元年である

当時の世相というのはどんなものだったのか、知りたいと思っていた。これは、なかなか面白い。

途中の一篇「政府の恐露病と日露戦争」を読んだだけだが・・・一番最初の「維新当時の滑稽外交」から読んでみよう。

 

口語体なのだが、言葉の使い方からして、今とは随分違う。あるいみ新鮮である。

まだ命が粗末に扱われているというか、捨てるべき時に捨てる、という意識(もう今では誰も持っていないだろう)が感じられる。命に執着して、捨て場を見失ってしまうというようなことは少なかった・・・ようだ。

しかし、国を思って相当熱くなってきて、どうも危ないのではないか(卑屈なところから逆上せてしまうところへ駆けあがっている)、という雰囲気が出てきている。

 

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歳を取るということはこういうことなのか・・・陽気がよくなり身体が楽かと思うとそうでもないのである。散歩から帰ると、泥のように(濡れ雑巾のように)力がなくなり、何もできない。・・・ほんとうにゆっくり歩いているだけなのだが・・・。

一時間以上休憩しないと、次のことは出来ない。休めば、また動ける。

 

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セミはほとんど鳴かなくなってきた。今日はツクツクボウシのかすかな鳴き声を聞いた。川の上を飛び回っている100羽を超えるツバメに出会った。飛び回りながら水を飲んでいるようだ。イワツバメであろうか・・・腰が白っぽいし、すこしずんぐりしている。

電線にもたくさん止まっていた。明日あたり大移動だろうか

明日の天気は良さそうだ。

 

今日は15夜かな。明るいまん丸い月がよく見える。右が水星で左が火星だろうか

 

 

今日は9月最後

早いもので今年ももう残すところ僅か。

今日は冬支度ですね。といっても大したことはしないけれど。ストーブを出したり、エアコンのフィルターを掃除したり。夏用と冬用の着るものを入れ替えたり。

 

昨日は、将棋の日でしたが・・・負けました。

序盤戦で圧倒的に有利な立場に立って、このまま勝てるのではないかと思ったのですが、駒が一枚足りないね、と・・・読み切られていたらしい。私も何となく詰めまではいけないとは思っていたのだが・・・やはりあと一枚足りなかった・・・その駒を手にしたところから・・・相手の攻めが始まり、王手の連続で防戦一方。完全にあそばれてしまったなあ

 

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この前リサイクル市で貰ってきてあげた本、面白かったらしく、食事が終わるとすぐに部屋に引き籠ってしまうので、奥さんが、何処か具合でも悪いのか、と心配したそうな。

リサイクル本、気に入ってもらえて何よりでした(この上げた日は、偶然にもKさんの誕生日だった。)

私は、貰ってきた本、カードレンズを使って読んでいるが、この方法ではあまり読めない。・・・

 

もう紙の時代ではないかもしれないが、紙の本で育った私は、紙の本でないと頭が回らないような気がする。たぶん映像の100分の一ぐらいの情報量(もっと少ないかも)だろうと思うのだが、それが丁度いいようだ。

 

数ページ読むと、腕が疲れる。その時には、本を胸の上とか横に置いて、しばらくしてからまた読み進む。

映像のばあいは、一度ざっと流してから、2回目にところどころでストップして、見直すということになるのだろうか。それでも、こちらの方が時間は少なくて済みそうだが。もうあまり時間は関係なくなってきているから。

 

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頼んでいた車、見つかったようで、10月2日に持ってきてくれることになった。なぜこの日なのか聞いたら、この日は「大安」なのだという。商売人はそういうものなのかと思った。

 

平成29年(2017年)製造の車だという。

今の車は、何処にも不具合はないのに、買い替える・・・車のせいではなく、この私の体調のせいである。・・・

 

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蚊が出てきている。昨日立ち話をしていたら、そのことが話に出てきた。朝草取りでもしようかと庭に出たが、すぐにやめてしまった、と。

そういえば、3日ほど前の日曜日に、地区総出で川掃除をした。川の中の草とか土手の草をとり、袋に詰めるのである。

私は腰の具合が思わしくないので、鋤簾で川の草を取るのは遠慮して、土手の草を刈る方に回った。このときにも結構蚊が出ていた。

これからしばらくは蚊取り線香が必要かもしれないな。

汗もかかないし、散歩の好時節でもある

 

 

何者が何しに?

有名な若手俳優が3人続けて亡くなった・・・黙とう

 

・・・どうも自殺らしい。

あれこれ理由が探されているが・・・

・・・そうなの?

 

・・・切っ掛けは、コロナで仕事がなくなったことだろう。

俳優というのは、仮面をかぶって、他人に成りすますこと。

有名な俳優だったということは、それが巧みであったのだろう。

仕事がないということは、仮面を脱ぎ、自分に戻り、自分でいるということ。

しかし、大半の時間を他人に成りすますことで過ごして来たら、短時間なら息抜きのようなものであろうが、長時間となると、自分でいるのはそうとう難しいかもしれない。

 

坐禅のようなものではないのか

 

日々忙しく動き回っている人間が、すべての動きを止めて、坐る。最初は、五感の働きが新鮮だが・・・やがて苦痛になる。・・・

 

一生坐禅ということになると、何のために生きているのか、分からなくなる。

そこから日常を発見するのは、人さまざまだが、すこし時間が掛かる。

 

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思春期に、オレは何者、何のために生きているの?と思わ(問わ)なかった人は少ないだろう。

その疑問を抜け出して、社会の中で、自分の仕事を見つけ、生活する。

言い方を変えれば、混沌(まだ子ども)が目鼻を穿つ(やりたいことを見つける)ようなことだ。混沌が死に、人が生きる。

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退職し、家にいるようになると、誰もが戸惑う。

 

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これがそうだというのではない。私は、こんなことを感じたのである。

 

自分でブログを書きはじめたときに、何か虚像になりすまそうか、と思った、でも、それは難しかった。自分に似ているが少し違う、ま、そんなところである。

そういうことを考える時、全く別人になりすます俳優は、特殊な才能に違いない、と感じた。それを演じるのは、誰かに見られているから、だろう。

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私事

もう2か月ほど前の事である。将棋の先生のKさんが、2、3日前の事を話してくれた。

「トンネルに入ってすぐに突然、ライトが消えエンジンが止まってしまい、大変だった。連絡しようにも車のそばを離れられないし・・・(三角表示板を積んでいない)(携帯も持っていない)・・・如何しようかと困っているところに知人が通りかかって停まってくれて助かった」

 

トンネルの入り口付近は上り坂になっている。アクセルを吹かしてライトを点けたところで、電気系統がダウンしてしまったのである。中古だと電気系統は危うい。特にここは海に近いから。

 

しかし大したことがなくてよかったね

ということで話は済んだのだが、

私の車も、彼のに劣らず古いからなあ。何時何が起こってもおかしくない。

 

・・・じつは、電気系統の不具合ではボクにも経験がある。5年前、引っ越しの荷物をたくさん積んでいた時に、上り坂で突然スピードダウンして、あわてて走行車線からトラックレーンへ移動した。スピードはダウンし続け、結局40キロ以下ぐらいまで落ちてしまった。止まるかと思えるほどであった。

後で修理に出したら、3気筒のうちの一つがプラグではなく電気系統が原因で点火しなかったという。

 

少し年式の新しいのに買い替えようか・・・と思って、それとなく周りの車に注意していると、ホンダのNbox,ダイハツTanto,スズキSpeciaがやたらと多い。

これらの新しいものにはどれも衝突防止装置が付けられている。決して安くはない。勿論誰もが新車に乗っているのではないだろうが、このごろ新車が多いように見える。

 

年寄りにそんなにお金が余っているとは思えないので、無理して買っているのだろうと思う。年寄りは皆それとなく、安全性に気にかけるようになってきているということだろう。あるいは子供たちが気にして買い替えさせているのか・・・

 

私はそういう新しい軽を買う余裕はないのだけれど、まだメーカー保証のついているか、切れた直後ぐらいの車に乗ったほうが安心していられる。お金よりも安心が大切になってきた。(それは自信がなくなってきた裏返しであろう)

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実は、もう長距離ドライブは卒業しようかと迷っていた。2年前(去年?)渋滞で接触事故(軽く触れただけで双方とも修理は必要なかった)を起こしたショックが大きかった。

 

12時間(休憩込み)走るのはもう止めた方がいい。何処かで気が緩む。と感じた。

 

そういう時に、コロナ騒ぎが起こり、公共交通機関に長時間乗るのは暫くは、止めた方がいいと思うようになった。(私には軽い気管支炎がある)

 

それで、今乗っている車に何の不足も感じていない(むしろ愛着を覚えているのだ)が、親の墓参りに、少なくとも年に二回ほど行きたいので(それもあと数えるほどの事だろうが)

やはり新しい中古を買うことにした。故障の不安なしに走れて

寝袋を積んでいって、途中で2、3時間仮眠が取れる室内の広さが欲しい。

・・・値は一桁下ということで。

 

(・・・途中で宿に一泊するのも考えたけれども、これもコロナ騒ぎで保留である)

 

杞憂かもしれない。まだまだいけるゾ、と思いたい気持ちと相半ばするのだが、

・・・私は案外小心者らしい。

 

 

『心事』

昨日何気なく、心事と書いた。その後考えてみれば

私は「心の事」のような意味で使っていた。しかし、「心の事」とはどういう事か

また、「心と事」とも言える。・・・

いつの間にか、慶喜さんを離れて、「心事」という言葉の周りを歩き始めた。

陶淵明など、ずいぶん似ている。書いた詩もほとんど心事ではないか・・・

漢詩は心事を描きやすいということか

いや。一切は事である様でいて実は心の顕われであるから、・・・

事を描いているようで実は心を表現しているのかもしれない

 

何しろ見ている対象は事のようでいて、心であるとは自明の事ではないか

 

そう考えてくると、司馬遼太郎は何を書きたかったのか

水戸学の「縛り」だろうか。

見方によっては、ついこの間まで日本は「水戸学に縛られていた」とも言えなくはない

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ま。面白ければいいではないか。とも思う。

 

本能を忘れかけて、代わりに、「一神教的」な何かを掴んでしまう・・・

なんとも、面倒な生き物だなあ、ヒトというのは。

 

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心はどんな微細なところでもどんな広大なところでも自在に駆けることが出来る

人に分かってもらおうと思えば論理の筋を通さなければならないが・・・

 

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司馬遼太郎の関心は「将軍になるところから将軍を降りるまで」だったのだろう。

だから将軍を降りた後の「徳川慶喜」にはさほど紙面を割いていない。

しかし、ヒトは棺に蓋をするところまで、元将軍だから・・・

元将軍に関連しないことは削ぎ落した。

 

ボクは、清水の次郎長慶喜さんにあったことがあるのだろうか、なにしろ自転車で走り回っていたというし・・・

とか、そういう瑣事が好きなのだが・・・それは山田風太郎の領分かな

でも、本筋を逸脱するのも悪くないのでは。

 

「恐れ多くて」出来ないかな。