『日本語と外国語』つづき

『言語が違えば・・・』とは、ちょっと角度が違うようである。

まだ第一章を読んだところだが、日本人に対して、どうしても言いたいことがあるような雰囲気である。

おそらく、小学校から英語を教えるようになることに対して不安が大きかったのか(この本は1990年に発行されている。2015年に44刷だから、そうとう読まれていると言っていい。古本ばかり買うボクには珍しく新本を購入している。)。

今は実際に教えられ始めているのかな?ボクはそういうことには疎いのだが。

 

ボクには珍しい事だが、YouTubeを検索していて、この『日本語と外国語』を紹介している映像を見つけた。8分余りの紹介だが、とてもユニーク。これで紹介になるのかな、と疑問に思うところもある。ドイツに住んでいるか住んでいたことのある、女の方が本を片手に紹介している。

(そういうことではボクも似たようなもので・・・ボクの場合は紹介しようというより,ダシにして何かを言おうとしているだけなのだが・・・それも歯切れが悪く・・・)

 

ペルーで1年以上も居たので、いろいろ思うところもあるが、いま不図思い出したことを一つ。前とはうまく繋がらないのだが・・・。

リマのあるところで道を聞いたところ、逆にお前は日本人かと聞かれて、そうだと答えたら、カミカゼ!と感激して握手を求められた。私は戸惑ってしまったのだが・・・

確かに日本は、滅びてしまった。祖国が見事に玉砕してしまい、ペルーに取り残された日系人は、祖国を失って、ペルー人として生きる道を選び、日本語を捨てた。

完全に言葉を捨て、10年以上が経過して、また独立した日本とつながりが出来るようになったわけだが・・・このころ子供だった人以後、日本語は一部の日系人しか喋れないし書けない。

今ペルーで日本文化として伝わるのは、ワタシの目には「オキナワ文化」のように感じた。勿論表面しか見ていない訳だろうが。

・・・あれやこれやを断片的に思い出す。

何か残っていき、なにが消えてしまうのか・・・

日本語もいずれは消えてしまうのか・・・

アレントなど、言葉に対する執着は凄い。命そのものという感じだ。ボクにそういう執着が、あるか?

(まったく首尾一貫しません。ご海容)

 

 

『日本語と外国語』(岩波新書)

これは鈴木孝夫先生の本である。氏の本は、特にペルーから帰って、何冊か読ませてもらった(どの本にあったのか忘れてしまったが、洗車が環境を汚染しているのでほとんどしないようなことが書かれていて、汚い車を運転している姿を想像して面白く思ったことがある。その本には反故紙のリサイクルのことも書かれていた)のだが、この本はそのころ(2016年)購入して、パラパラと捲っただけで、本箱に収めてしまっていた本である。

・・・何冊か読んでも、ボクの知りたいことは直接的には書かれていなかったので、止めてしまったようである。

この度、久しぶりに、『言語が違えば・・・』を読んで、以前のことを思い出して、この本を本箱から引っ張り出した。

そして、読み終わった日付が記載されてないのを見て、何故読むのを止めてしまったかを思い出しつつある。・・・悲しいかな、全部は思い出せないのだが・・・。

 

あれから7年半ほど経過して、スペイン語へのこだわりもなくなって(手元に辞書もテープもあるのだが・・・もうほとんど忘れてしまった)、自分が何を思っていたのかもよく思い出せない。まあ。改めて、読んでみようかと思っている。

 

検索したところ、鈴木先生は去年の2月ごろに鬼籍に入られたようである。合掌

 

 

 

 

 

夜が長い

近頃は昼の方が長くなってきたが、まだまだ夜は長い。

朝2時ごろに目が覚めてしまうので、おそらくはこれからもつづく。

 

あおむけで本を読むことが多いのだが、目や腕が疲れて、明かりを消して

天井を見ていることが増えてきた。

 

とにかく、今日何をしなければならないということがないので、寝床からサッと飛び起きるということはすくなくなった。

最初の頃は、本の読んだところをあれこれ考えたり、連想に遊んだりしていたのだが、

近頃は、ただ天井を見ていて、だんだんカーテンの隙間が明るくなってくるのを感じていたりすることが増えてきている。

 

そういうときに、過去の様々な出会いを思い出すことも少なくない。

もう亡くなった人なども多いが、まだ存命の人も多い。

必ずしも人とは限らず、情景もある。

 

懐かしくなって会いたい思いが募ることもあるが、一歩退いて、

逢って如何したいの、と思う。

どうにもできないし、どうすべきでもないのではないか。

(ことばも上手く喋れないし・・・共通の話題もないし・・・)

区切りをつけたはずではなかったのか。

 

それでも、もう亡くなった人には、出会ったら挨拶ぐらいは交わしたいものだと。

 

現実と夢の間が曖昧になってきていると感じることもある。寝ぼけているのかも。

 

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あれも一時、これも一時であろうか

 

 

 

 

 

海外ドラマ『ナンバーズ』2005~2010

雨の日が多かったので、ドラマを見ていた。たしかこれはずいぶん前に日本でもテレビでやっていたのではないかと思うが、そのころボクはあまりテレビを見なかったので、数回分は観た記憶があるが、よく覚えてはいない。これは6年続いたようだが、今回私が見たのは今の所3シーズンまでである。ちょっと息切れ。

 

副題に、天才数学者の事件ファイルとある。この副題は日本でつけられたのではないかと思う。確かに主役の一人は、天才数学者という設定であるが・・・。

 

アメリカドラマは大体「家族愛」がテーマの事が多いように思う。このドラマも、家族愛がテーマだと感じる。

FBI捜査官の兄と、数学者・大学教授の弟。建築家の父。母親は一年前に亡くなった。というところから始まる。このとき弟は26歳ぐらいだろうか。

弟は天才である。兄が15歳で高校に入った時、弟は、飛び級して、10歳で同級生になったという・・・兄としては立場がないような・・・。親は、子どもの時からこの弟中心に生活を余儀なくされたらしい。弟がプリンストン大学に入学した時は母親がついていって親は別居生活(家は確かロサンゼルス)、なにしろ13歳だから・・・。多分、母が早くに亡くなったのも、この天才に振り回されてのことではないかと(そうは描かれてはいないのだが)勘ぐってしまうような、設定である。

 

ボクは、あまり想像力が豊かな方ではないので、天才の周囲というのは考えたこともなかったのだが、このドラマで初めて、少しばかり、考えさせられた。

将棋の藤井さんには兄弟がいるのかどうか分からないが、あの人の周囲の様子も少しばかり想像される。ピアニストやスケーターとか・・・。

 

ボクのような出来の悪い子を持った親も苦労しただろうが、天才を持った親もまたそうとうな苦労のようだ。

 

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トマト。うずらの卵ぐらいの大きさの実になってきた。

サラダ菜を減らして、オクラを植えた。3株。

また、少し離れたところに、小玉スイカの苗を植えた。花が咲いてから35日で収穫できるという・・・このあたりにはカラスが少ないようなので、楽しみである。

 

 

 

 

『言語が違えば世界も違って見えるわけ』(ハヤカワ文庫)

面白く読んでいます。まだ三分の一ほど進んだところです。

『言語』には英語を学び始めたころより興味があった。それで筑摩書房『言語生活』を読んだり、『言語と社会』(岩波新書)や『言葉と文化』(岩波新書)などに目を通したりしたが、いつの間にか忘れてしまっていた。それが再燃したのは、7,8年前にスペイン語学習で苦労したころからである。

この本も、そのころを思い出して手に取った。

話は少し脱線するが、ハヤカワ文庫には、ときどき、興味深い本が見つかる。

 

この本は、外国人が書いた本の翻訳だが、何となく以前読んだ『人類が知っていることすべての短い歴史』(新潮文庫上下)に雰囲気が似ている。すこし難しい内容を興味を持って読んでもらおうとすると、書き方が似てくるのかも知れない。

 

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本箱を眺めていたら、幾つかの、手に取っていない本が目に入った。

鳥取の市立図書館の「リサイクル市」で持ち帰った本である。

・・・「除籍図書」・・・図書館で購入して、年月を経た本、あるいはほとんど読まれなかった本のようである。

内容は、重いものが多い。『未来を失った社会』『ボスニア戦争とヨーロッパ』『最終解決 民族移動とヨーロッパのユダヤ人殺害』『いま哲学とは何か』・・・

『アジア読本 トルコ』(これは20年以上過ぎたからかも)などなど。

 

これらにも目を通さないと時間が無くなるかもしれない、と、ふと思った。

 

 

 

 

 

 

4630万円

今朝の『産経抄』を読んでいたら、4630万円誤送金された若者の話が書かれてあった。

24歳という。

彼はどんな悪魔に魅入られたのだろうか。

 

宝くじで大金を手にして人生を誤る話は知られている。これは半分は嘘ではないかと思うのだが・・・半分は本当だと思う。突然有名になって、ちやほやされているうちに、身を誤る人もあるようだから。

今回は、そういうのとはちょっと違う。明らかに「試されて」しまったのだろう。

誰に?それは分からない。・・・運命に?

 

ボクがそういう目に遭ったらどうするだろうか。

心臓は破裂するかと思うほど高鳴り・・・10日たっても1か月たっても、何の連絡も来なかったら・・・???

誰かの悪戯だろうか・・・疑心暗鬼の末に・・・

 

いずれにしても、こういう「試験」対象者にならなかったことを喜びたい。

 

かわいそうだね。こんな試験を受けさせられて。

結果、試験に落ちてしまって。

でも若いから、やり直せるかもしれない。

 

 

 

 

雑感

アレント入門」を読んで、あれこれ考えていた。

やはり、すごい力技だなあ、と。

梃子の支点は、自分の存在、ということなのだろう。

ナチに存在を全否定され、友達も師もそれに加担したという。

昨日までの友が敵になる、敵になるだけでなく、ワタシの存在を全否定する・・・。

ナチが滅びた後で、何もなかったように

また、仲良くなれるモノだろうか。

 

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一頃、「みんなで渡ればコワくない」という言葉が流行った。

これは、善とも悪とも無縁の、「そうだね」という感じであった。

そのずっと前、子どもの頃に「長い物には巻かれろ」という言葉があった。

これは、ボクの感じでは、それではいけないよ、というように聞こえたのだが

実は、大人はみんなそうしている、というようにも感じた。

 

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海中の、魚の泳いでいるところを撮った映像を見ていると、

誰が先導しているわけでもなく、一つの群れで泳いでいる様子が分かる。

しかし、そこにサメやアザラシや海鳥などが入ってきて、サッと群れが分かれるのだが、逃げ遅れたある個体が食われる。

食われた奴は、単についていなかった、ように見える。

 

・・・・・・・

 

統計や傾向や偏差値などに慣れているので、だれもが平等な、AでありBであるようなつもりで生きている。すると、この小魚の群れの中の一員のような気になる。落ちこぼれてしまうのは、単についていなかったのだ、と。

 

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考えているつもりでいたのが、実は、側線に感じられる水の流れに反応している魚のような、反射運動に過ぎないのかも知れない。しかし、その、食われる個体としては(初めて群れではなく個体として存在するのだが)冗談ではない!

 

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ボクは、難しい言葉は苦手だが、書かれてあることには思い当たることも少なくなく

「さてどうしたものだろうか」と何度か立ち往生した。

 

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修行者は、サイの如く一人歩む、のが身上なのだが

師の教えを墨守するようなところがあり、視野が極端に狭いところもある。

気付いたら群れから外れてしまっていたということもあり、群れを忘れて勝手なことをしてしまっていることも少なくない・・・

 

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だんだん、何を書きたいのか分からなくなってきた(簡単に収束しないような)ので、ここで中断します。

 

茎の短いタンポポ鳥取では黄色いのはほとんど見かけなかった。