夜中に目覚めて

モノを考えるときに、一番根底に、個というものを想定するのか、そういうモノはすでに仮想されたものと考えるのか、案外大事なことなのかもしれない。

ボクたちは、どちらかというと、個を根底にあるものと勝手に思い込んでいる。

それは、考えるときに使う言葉の特性からきているように思う。

分けて考える。分けて、名前を付けないと、考えにくい。

しかし、大昔、考え始めたころの人は、分けてしまっていいのだろうか、と

一度立ち止まった。

混沌に穴をあければ、死んでしまうのではないか、と。

そのころから2千数百年が経過した。学問的には、いろいろ精密な議論が組み立てられてきているのだろうが、ボクのような横着者にはちょっと近づけない。

 

相変わらず、その最初のところで、やはりグズグズと拘ったりしている。

 

死んでしまうとは、どういうことだろうか。

 

それは、蛇を筒の中に入れるようなことなのではないか。

標本を作って比較し、分類することかもしれない。

 

しかし、それは、そのモノとどういう関係にあるのか。

 

外から物差しを当てて計測したりすることであって、もともとは無関係なことなのではないか。

確かに、話を聞いている分には面白いのだが・・・

 

言葉には、ダイアモンドをカットするようなところがある。

より美しく輝くようなカット。しかし、それはダイアモンドとどんな関係があるのだろうか。

しかし逆に、カットされていないダイアにはどんな値打ちがあるのだろうか。

ボクたちが喜ぶのは、あの冷たい輝きではないのか。

 

モノを取り出す。あるいは切り出す。そこから、話は始まるのではないか。

それは、何らかの目的をもって、切り出されている。

カットの仕方によっては、見向きもされない。

ごろっと取り出された原石を投げ出されても、戸惑うだけだろう。

 

しかし、原石がどういうモノなのか、一度は見ておく必要はあるのではないか。

筒の中に入っていない蛇を。空を舞っている蝶を。

しかし、

蛇だけを見ていたのでは、やはりモノから考え始めるしかないだろう。

 

ボクは、何を言いたいのだろう???

 

思考というか意識というか、その網のことなのだが・・・

 

一度、思考を受け入れれば、そこには、言葉を使って構造物を作り上げることはできる。それこそ、無限といっていいだろう。

だけど、何を、根底に置くのか。どういうモノを作りたいのか。

蛇が這いまわり、蝶が舞う世界なのか。人がそれを楽しむ世界なのか

それは、今なのか、近未来なのか。

 

意識しないで生きていくことは可能なのかどうか。

異性を意識した時、世界がガラッと変わってしまうのを思うと、一枚ではないような。

すべては、乱反射する光のような気もする。根底にあるのはモノなのかどうか