『老子』を読んでいての雑感か

この前の記事で「順序がぎゃくになっただけ」と書きました。

順序が逆になったら、普通は困る。例えば、靴下をはいてから靴を履く。これが逆になると拙い。

しかし、逆になっても問題のないことも多い。例えば、足し算・掛け算(引き算・割り算は拙いかな)

 

私が書きたいこととどんどんズレていってしまいそうなので、ここは、さらりと流し、話を自分の思いに戻す。

 

順序が逆、ということで、近頃の世相を思ったのであった。具体的に、詳しくは書かない(書けない)けれども、

順序が逆だと拙いことが、多いのではないか

問題が未解決のまま上書きされて行って、生身の人間が取り残される・・・

 

 

まあ。一番基本的に、自分で手の届くところということで;何のために生きているのだろうか

 

最初のボタンを掛け違うと、間違いに気づいたときには、全部外して、最初から掛け直すしかない。

これは大変だけれども、たぶん、それ以外に方法がない。

それ以外だと、ごまかしにごまかしを重ねて、結局

目先の利だけを見て生きてゆくということになってしまう。

たった一度の人生だから、それでもいいのかもしれない・・・

たった一度の人生だから、それでは拙いのかもしれない・・・

 

だって、間違いに気づくのは、かなり年を取ってから、ということは少なくないように思う・・・今更もとには戻れない。これから先は、ごまかしながら、つじつまを合わせて生きてゆこう。

どうせ、一回だけの人生だから。疲れないように、軽く行こう。

ということが多いかもしれない。

 

・・・・・・・・・

 

ボクは、近頃、鏡を見ることが多い。

それで、思うのは、《ずいぶん人相が悪くなってきたなあ》と。

あっちこっち、痛いところが増えてきて、顔をしかめたり、物を噛めない歯が有ったりして、皺の付き方が左右対称ではなくなってきたのだろうか

・・・・もっと根本的なところで

人相が悪くなる原因があるのではないだろうか

ひねくれた考えを持っているとか・・・・揉まれているうちにひねくれてしまっただろうし・・・最初のボタンに戻るといったって、なあ。

どこまで戻ればいいのか・・・付け焼刃で、笑顔を作ってみる。